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沢庵和尚として知られる沢庵宗彭(たくあん-そうほう)は、戦国時代から江戸初期に知られる臨済宗の僧です。
父は有子山城主・山名祐豊の重臣である秋庭綱典(田公綱典)で、その次男として生まれました。
しかし、8歳のときに、羽柴秀吉の但馬攻めにて山名家が滅び、父・秋庭綱典(田公綱典)らは逃走します。
その後、父は山名豊国に従いましたが、沢庵宗彭は出石の唱念寺で出家し、のち宗鏡寺に入りました。
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1591年、出石城主・前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招くと、沢庵も師事しています。
1594年、師の薫甫宗忠が大徳寺の住職になった際には、沢庵も従っており、1599年に、石田三成が佐和山城に瑞嶽寺を建立した際には、住職となった薫甫宗忠に沢庵も同行しています。
1600年、関ケ原の戦いで、石田三成が敗れて、佐和山城も攻撃されると、薫甫宗忠に沢庵は逃げ延びました。
六条河原で処刑された石田三成の遺骸を引き取り、大徳寺の春屋宗園(しゅんおく-そうえん)と共に、大徳寺塔頭・三玄院に葬っています。
江戸時代に入り、1609年、沢庵宗彭(37歳)は、大徳寺の第154世住持になりましたが、3日で辞めて、堺・南宗寺に移っています。
1620年、郷里の出石に戻ると、出石城主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を構えて、隠棲生活を始めました。
細川忠興、浅野幸長、黒田長政などからの招きも断り、静かに仏門の道を究めたようです。
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紫衣事件
ところが、1627年、紫衣事件(しえんじけん)となります。
高層の着衣とされた紫衣着用の許可は、古くから朝廷が行い、その見返りの収入なども貴重な財源でしたが、江戸幕府が朝廷の権力を奪う形で統制を開始し、袈裟(けさ)の授与を規制しました。
しかし、後水尾天皇が従来通り、幕府の許可なく十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えます。
徳川家光はこれを無効としたため、沢庵和尚は大徳寺に戻り、玉室宗珀、江月宗玩や、妙心寺の単伝士印、東源慧等らと反対運動を開始します。
そのため、幕命に背いたとされ、沢庵を出羽・上山城下に流罪となりました。
配流先の上山藩主・土岐頼行は、沢庵に草庵を寄進するなどして厚く迎えています。
1632年。大御所・徳川秀忠の死去すると、天海、堀直寄、柳生宗矩などの尽力により、紫衣事件に連座した者たちは大赦となり許されました。
柳生宗矩の剣は沢庵禅法に依るもので、 その後、沢庵和尚は、柳生家の菩提寺となる芳徳寺を開山するなどしました。
67歳のときには、徳川家光が開山した品川の東海寺に入り、初代住職にもなっています。
また、徳川家光とも完全に和解し、大徳寺・妙心寺も元のとおりに復興しました。
ダイコンの漬物である香の物「たくあん」は、一説に沢庵和尚が考えたとも、徳川家光が「沢庵づけだ」(沢庵漬け)と命名したともされます。
1646年に、沢庵和尚はは江戸で没します。享年74。
墓所は出石の宗鏡寺と、品川の東海寺に、沢庵和尚の墓があります。
沢庵寺「宗鏡寺」
沢庵寺とも呼ばれる出石の宗鏡寺(すきょうじ)は、苔の緑や古い石仏のコントラストも素晴らしい寺院です。
池泉鑑賞式日本庭園は「無の庭」として「鶴亀の庭」や「心字の池」など、沢庵和尚のお手植えと伝わります。
「胡蝶わびすけ」や、和尚の夢に出てきたとされる「夢見の鐘」があります。
48歳才から8年間過ごした「投淵軒」では数多くの和歌や書物を残しました。
下記は、宗鏡寺にある沢庵宗彭の墓です。
宗鏡寺は有料拝観で、開門時間は朝8時30分~16時30分です。
年末年始はお休みとなっています。
紅葉の時期も素敵だと思いますよ。
山門の手前には、2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」で有名になった川崎尚之助の碑も建立されています。
その近くに無料の駐車場も完備されています。
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