蘇我馬子 推古天皇の叔父で権力を持った蘇我氏

蘇我馬子

蘇我馬子とは

蘇我馬子(そが-の-うまこ)は、飛鳥時代の古代・中央豪族である蘇我稲目(そが-の-いなめ)の子として、551年頃に生まれました。
父も大臣として宣化天皇・欽明天皇のもと政治を行った貴族で、娘3人を天皇の妃にし権力を強めていました。
その嫡男が蘇我馬子と言う事になりますが「子」の字がいていても、女性ではなく男性となります。

572年、敏達天皇が即位した際に、大臣となって政治デビューし、物部守屋と朝政をつかさどっています。
当時、大連(おおむらじ)の物部氏と、大臣(だいじん)の蘇我氏は大和政権での二大勢力となっていました。
古代の日本では神道を信仰していましたが、この頃、百済から仏教が日本に伝わり(仏教伝来)、革新派の蘇我氏は、天皇に仏教の信仰するべきだと説得します。
その結果、 物部氏と対立する構造は深まりました。
なお、2020年の新型コロナウイルスのように、この頃、日本では、なぞの疫病が何年も流行しており、その対策として仏教を信じるようになったと言う経緯もあるかと存じます。


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蘇我稲目の娘・堅塩媛が産んだ、用明天皇(ようめいてんのう)が585年に即位すると、王朝において仏教が公認されました。
その用明天皇が崩御すると、大臣の蘇我馬子が推薦した崇峻天皇(すしゅんてんのう)が第32代天皇に、587年、即位します。
そのとき、大連の物部守屋は、穴穂部皇子を即位させようと図りったため、蘇我馬子は穴穂部皇子宮を包囲して誅殺しました。
その翌月には、炊屋姫の命に蘇我氏らが物部守屋の館を攻撃し、物部守屋を討ち取って滅ぼし、用明天皇が即位したと言う事になります。

その後、蘇我馬子は、飛鳥寺を造営するなど、政治の実権を握っており、次第に天皇も不満を感じるようになったようです。
そのため、592年、東漢駒(やまとのあや-の-こま)に、崇峻天皇を暗殺させ、更には口封じのため東漢駒も殺害しました。

そして、皇太后になっていた炊屋姫(蘇我稲目の女・堅塩媛が産んだ皇女)を即位させ、初の女帝となる推古天皇(すいこてんのう)としました。
厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子として摂政に取り立て、蘇我馬子は聖徳太子と合議して政治を行い栄華を極めました。
仏教を奨励し、冠位十二階、十七条憲法を定めて中央集権化を促進し、遣隋使を派遣して、隋で採用されている最新の社会制度や学問を日本にもたらしています。
596年、飛鳥寺が完成すると、蘇我氏の氏寺となりました。

622年、聖徳太子が死去すると、蘇我馬子はまた権勢を誇り、新羅の調を催促するため、境部雄摩侶を大将軍として、数万の日本軍を朝鮮に派遣しています。
しかし、晩年は、推古天皇とも対立が始まる中、626年に蘇我馬子は亡くなりました。享年75


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墓所としては桃原墓に葬られたとあります。
現在、奈良県明日香村島にある石舞台古墳が桃原墓と推定されています。
なお、現在の飛鳥寺は、その後移転したものであり、蘇我馬子時代の飛鳥寺(法興寺)は、法興寺中金堂跡(現在の安居院)で、蘇我氏の屋敷も近くにあったようです。
また、約2年後には、推古天皇も崩御しました。

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