宇野政頼と山崎城・黒田官兵衛の関係

 1580年、頑強な抵抗を続け、籠城していた三木城の別所長治が自害して落城すると、英賀城の三木通秋は孤立。

 こうして羽柴秀吉の攻撃目標は、奥播磨で抵抗を続けていた長水山城・宇野政頼に向けられた。

 1580年4月、羽柴秀吉はみずから大将となって本陣を率いて、先陣・荒木平大夫が1000騎、中陣・黒田官兵衛が3000騎、そして後陣・神子田半左衛門が1000騎をもって、播磨の山崎に兵を進めた。
 そして、林田松山城、常屋城(宇野祐光)、香山城などを攻略し、篠の丸城(宇野満景)、杉ケ瀬城、都多城、五十波構などを落とすと、宇野政頼が籠る長水山城(長水城)を完全包囲した。

 宇野氏は赤松一族で西播磨の諸武士を配下に従えると、長水山城を中心とした12万石を築き、宍粟市内各地に城塞群を構築。長水山城は宍粟の中核であり、但馬の竹田城にはおよばないが、天空の城というにふわしい佇まいの堅固な山城であった。

 この為、力攻めを避けた羽柴秀吉は、囲みに蜂須賀小六らの兵を残すと、孤立していた英賀城の三木通秋を攻略する為姫路に向かった。

 毛利家付くか、織田家に付くかと言う存亡を巡る争いを含んだ、家督争いが起きていた宇野政頼は、嫡男・宇野満景を殺害して、次男・宇野祐清を家督に据えるなど家中対立もあったことから羽柴秀吉は、宇野満景派で赤松則房の軍中にあった安積将監を通じて、内通者を探ったようだ。
 そして、長水山城の田路五郎左衛門ら、かつての宇野満景派の武士約20人を動かして、城中の様子を内通させた。


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 籠城十数日、城兵の疲労をまっていた羽柴秀吉軍は、5月9日、田路五郎左衛門らの手引きで長水山城への攻撃を開始。
 翌5月10日、長水山城は炎上し、城主・宇野政頼父子らは、作州竹山城主・新免伊賀守宗貫(3男)を頼って、蔦沢谷より間道を抜けて、鷹巣を超え千種の岩野辺に落ちて行った。

 「長水軍記」などによると、5月10日に長水山城を脱出した宇野政頼ら主従は、時折り攻撃を受けるも長水山頂付近を彷徨い、孤立無援で食糧に苦しんだすえ、6月5日、夜陰にまぎれて長水山から落ちていったとあるが、1ヶ月もの間、狭い山頂で抵抗を続けるということは不可能だと考えられる。

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 宇野政頼・宇野祐清の父子らは、千草・大森で折柄の雨で増水した千種川を渡ることが出来ず、河呂の大森の段で宇野政頼以下の一族が自刃し、家臣侍分32人、士卒95人が殉死したという。
 宇野政頼の法名は松山専哲居士。「三日月町史」によると享年は58歳。
 現在、自刃の地である兵庫県宍粟郡千種町大森に、宇野政頼の子・息真賢法印が建立した供養塔が残されている。

 1580年4月、黒田官兵衛が篠の丸城に入ると、宇野氏時代の篠の丸城(ささのまるじょう)を廃して、山麓の鹿沢に山崎城を築き統治した。
 9月に揖東郡以福井庄内6200石、岩見庄2700石、伊勢村上下1100石、都合1000万石との知行宛行状が残っており、黒田官兵衛は宍粟郡1万石を領した。
 1581年3月には、宍粟郡で加増され、合計20000石となった。

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