大内義長(おおうち-よしなが)は、豊後の大内義鑑の次男として戦国時代に生まれます。
母は大内義隆の姉で幼名は塩乙丸、通称は八郎。
兄には大友宗麟、弟には塩市丸がいます。
戦国期、大友氏と大内氏は北九州を巡り対立する関係でしたが、天文7年(1538年)に和睦が成立。
その後は大内義長が大内義隆の養子となることか内定し「大内周防権介」を称することが許されます。
この縁組の正確な時期は分かっていませんが、義隆が尼子氏の征伐に失敗して養嗣子であった大内晴持を失った天文12年(1543年)から、嫡子大内義尊の誕生する天文14年(1545年)の間、天文13年(1544年)頃に結ばれたと考えられています。
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しかし、その後大内義尊の誕生により縁組は解消。
天文18年(1549年)5月に大内義長は「大内義隆に嫡子義尊が生まれたために養子を解消された、恥をすすぎたい」と記した願文を豊前宇佐八幡宮に収めています。
また『相良家文書』にはこの縁組の反故に「恐れながら其方御心中察し存じ候」と書かれており、この事件が九州の諸大名たちに衝撃があったことが分かります。
天文20年(1551年)5月、『大内義隆記』によると大内氏重臣の陶晴賢が、義隆に追われ豊後に逃げていた麻生弥五郎を使者に大内義長へ大内氏相続の打診を行います。
これは、当時晴賢が義隆へ謀反を企ており、義隆・大内義尊親子殺害後の大内氏当主に義長を擁立するのが目的でした。
そして、当時義隆からも同じ内容の要請をうけていた義長は重臣との相談の結果、陶方につくことを決断。
義隆の書状を晴賢に送りつけることにより晴賢は一層叛意を強めます。
こうして同年9月、陶晴賢によって大内義隆・大内義尊親子が殺害される大寧寺の変が起こり、天文21年(1552年)2月11日大内義長は豊後より山口へ向かいます。
当初、義長の兄大友宗麟はこの計画を快く思いませんでしたが、義長が「大内家相続の目的を達したらどのような困難が起こっても苦しくない」と嘆願したと言われています。
その後大内義長は同年3月1日に琳聖太子の伝承の吉例によって周防の多々良浜に上陸、同月3日には山口に入り大内氏17代当主に就任します。
そして、同年8月には領内にキリスト教の布教を許し山口に教会堂(大道寺)を建立しています。
また天文22年(1553年)には室町幕府13代将軍足利義輝から偏諱を受けてそれまで名乗っていた晴英から義長へ改名、大内氏の歴代当主にならい従五位下左京大夫に叙任します。
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こうして大内氏の新当主となった大内義長でしたが天文21年には領内で大飢饉、同年には出雲の尼子晴久が幕府により中国8か国の守護に任じられるなど内外に問題を抱えており、さらには大内氏の内紛に生じて勢力を拡大した安芸の毛利氏とそれを快く思わない陶晴賢との間に対立が生まれます。
天文22年10月陶晴賢と対立関係にあった石見の吉見氏が反乱を起こし、大内義長は晴賢とともに天文23年(1554年)3月吉見氏の三本松城を取り囲みます。
しかし、安芸にて毛利元就が吉見氏討伐の命令を断り挙兵、安芸の大内方諸城に攻め込みます。
この戦況に対し晴賢は吉見氏と和睦を結び、義長とともに一旦帰国しますが、毛利氏討伐のために派遣した宮川房長が野戦にて毛利軍に敗退し、房長は戦死してしまいます。
そして弘治元年(1555年)毛利氏との対決に向けて陶晴賢は20,000の軍勢を率いて出陣、同年9月21日に安芸の厳島にある宮尾城を攻めるため渡海します。
しかし、同年10月1日に起こった厳島の戦いにて晴賢は毛利元就の奇襲に破れ自刃。
晴賢を失った大内氏の領内では反大内・陶の勢力が反乱を起こします。
こうして混乱に陥った大内領でしたが、大内義長は毛利氏に対し徹底抗戦を決断。
しかし毛利元就による調略・軍事の同時作戦の前に石見・周防で敗戦を重ね、大内氏家臣内では内通者が続出、弘治3年(1557年)3月12日には義長は山口を追われ長門の且山城に籠ります。
その後且山城を包囲した毛利軍に対し、大内義長とともに籠城していた内藤隆世が義長の助命を条件に自害して開城、義長は長門の長福院に入りますが同寺にて毛利軍に自刃を強要され同年4月3日に自刃します。
享年は26才と言われています。
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大内義長の辞世の句は「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」で、自分の人生の終わりにおいて何も恨まず、嵐が来なくてもいずれ花は散ると潔いものでした。
(寄稿)kawai
・大内義隆の解説 末世の道者
・大内義興の解説 武勇仁徳兼備して天命を受けた良将
・大友宗麟(大友義鎮)~国崩し・豊後の王
・陶晴賢の解説 西国無双の侍大将
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