吉野太夫とは~よしのたゆうは美貌だけではない優秀な女性だった

吉野太夫(よしのたゆう)は、京都の太夫に代々伝わる名跡。
初代から10代目まであったと伝えられ、初代の吉野太夫は安土桃山時代の女性となる。
本阿弥光悦などの文化人と交流があったとされているが、生没年や実名などは不明である。

2代目・吉野太夫

2代目の吉野太夫に関しては史料が少しあるため、ご紹介したい。
本名は松田徳子で実母は西国の武士であったとされる。
生まれは、江戸時代初期の1606年3月3日。
生まれた場所は、京都の方広寺近くと伝えられている。

六条三筋町・林兵衛家にて、遊女の世話をする少女として7歳の時に林家に抱えられ、14歳で2代目・吉野太夫となった。
吉野と言う名は、彼女が楼前の桜を見て「ここにさへ、さぞな吉野は花盛り」と詠んだからと言われている。


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大変利発な女性だったようで、和歌、連歌、俳諧だけでなく、琴、琵琶、笙も奏で、 書、茶湯、立花、貝合わせ、囲碁、双六に至るまで諸芸はすべて達人の域であったと言う。

馴染み客は、後陽成天皇の皇子である関白・近衛信尋(近衛信尹の養子)や、豪商・灰屋紹益などがいる。

才色兼備を称えられたその名声は、遠く海を渡った明国まで聞こえ、明国の呉興からラブレターも届いたととされる。

有名な逸話としては、吉野太夫を見染めた刀鍛冶職人・駿河守金網の弟子の話がある。
この駿河守金網の弟子は、せっせと小金を集めては島原へと向かったが、良しの太夫の相手となるには、遠く及ばないと門前で足止めされた。
それを聞き不憫に思った吉野太夫は、その男をひそかに招いて会ってあげたが、この事が問題となり年季満たずに、26歳の吉野太夫は廓を退くことになった。
この話を聞いた京の豪商・灰屋紹益(22歳)は、1631年に吉野太夫を身請けした。

当初、灰屋紹益の父・佐野紹由は、遊里の女を身請けした灰屋紹益に愛想をつかし、一時は勘当したほどであったが、吉野太夫の人となりを知ると勘当を許している。

しかし、その12年後、吉野太夫は1643年8月25日に亡くなっている。享年38。
墓所は鷹ヶ峰・常照寺。


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ちなみに、2016年の大河ドラマ「真田丸」に何回も登場する吉野太夫は、1代目とされますが、1代目に関しては良くわかっていないのが現状です。

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