湯浅宗福(湯浅宗正) 湯浅宗貞 細川藤孝(細川幽斎)には側室がいたのか?

湯浅宗貞


湯浅宗貞(ゆあさ-むねさだ)は、戦国時代の武将で、丹波・世木城(世木林城)主である湯浅宗福(湯浅宗正)の子となります。
丹波国船井郡にある五箇荘の地に「世木郷」という地名が古くからありますが、戦国時代に世木郷を領したのが湯浅氏と言う事になります。
湯浅氏と申しますと、藤原秀郷の後裔とされ。、紀伊の湯浅庄が発祥です。
その湯浅氏の一族で、鎌倉末期から南北朝時代に活躍した武将に阿氏川宗藤がいます。
その湯家の有力一族である阿氏川宗藤の5代の孫になる、湯浅宗朝(湯浅五郎兵衛宗朝)が、後亀山天皇に従って上京した功績によって世木郷を与えらました。
そして、のちの世に、一族の誰かが世木郷に移ったと考え、丹波・湯浅氏になったと言う事になります。


1467年、応仁の乱が発生した際の当主は湯浅宗武で、丹波守護代で丹波・八木城主の内藤元貞に従っていました。
最大の激戦となった、相国寺の戦にて、湯浅宗武は、重傷を負った細川勝元の子・細川勝之の身代わりとして討死しています。
自身を逃して討ち死にした湯浅宗武の忠義に、細川勝之は湯浅宗武の妹を正室に迎えて、生まれた子を湯浅宗正として養子に出し、丹波・湯浅氏の家督を継がせました。

湯浅宗正は細川政元に従っており、1501年、若狭・天笠城を攻略すると、若狭守に叙任されています。
更に、湯浅宗正は、丹波守護代・内藤貞正の娘を正室とし、丹波・内藤家と婚姻関係も結び、生まれた子が湯浅宗貞と言う事になります。
同じ「貞」の字ですので、内藤国貞より、1字を受けたのでしょう。
1545年、三好長慶に追われた内藤国貞を世木城にて匿いましたが、世木城(世木林城)も攻撃を受けて陥落したようです。
1548年、細川晴元と三好長慶が対立すると、内藤国貞は三好長慶に味方して再起を果たしたため、どうも、湯浅氏も従っていたようです。


1553年、丹波・八上城主の波多野元清を支援した三好政勝・香西元成らとの本梅郷の戦いで、内藤国貞は討死し、再び丹波・八木城は陥落しました。
このとき、丹波・八上城を包囲していた松永久秀の弟・松永長頼が、丹波・八木城を奪還しましたが、湯浅宗貞は、内藤国貞の一子・千勝丸(内藤貞勝)を、園部城に迎えて保護し、忠義を見せています。

そして、松永長頼が内藤国貞の娘と結婚して内藤宗勝と改名し、丹波・八木城にて、千勝丸の後見を務めても、湯浅宗貞は松永長頼(内藤宗勝)に従い、1562年には丹波衆として三好長慶に味方しています。
この時、敵側の畠山高政には、古い同族である湯浅宗政、保田知宗らがいましたが、一族で敵対するも勝利を収めています。

ところが、1570年、湯浅宗貞は突然、世木城を離れて隠居し、帰農しました。
この理由がわかりませんが、湯浅宗貞の妹が、細川藤孝の側室になっていたようで、その間に生まれた子を養子として迎え、湯浅宗清に家督を継がせたと言う事になっています。
ただし、一般的に、細川藤孝(細川幽斎)は、生涯、側室や妾を持たず、正室の沼田麝香だけとの間に子を儲けたと言われていますので、矛盾も生じます。
細川藤孝(細川幽斎)は弓術・馬術・礼法など武芸百般に通じ、茶道・歌道・能楽・文芸にも優れた文化人で、しかも側室を持たない愛妻家と言う事で、欠点がないような武将として伝わります。
でも、あまりにもできすぎ、ほめ過ぎで、悪いことは排除して記録したような印象も否めませんので、もしかしたら、側室のひとりや2人いたのかも?と感じてしまいます。


藤宗勝(松永長頼)も丹後・黒井城の戦いにて討死しており、1570年頃にもなると、丹波では波多野秀治・荻野直正らが勢力を拡大し、内藤貞勝や内藤如安も押されていました。
近くの宇津城主・宇津頼重が、内藤如安と共に丹波・内藤氏の中で実力をつけていますので、宇津頼重に敗れた可能性もあるのではと存じます。

あとを継いだ湯浅宗清は、武芸・学問・書道に優れていたようで、園部城に入った小出吉親に仕官すると別格上席郷士となっています。
また、熊本城の細川家は、丹波・湯浅氏を親戚として扱っていたようで、両家の親交は明治維新まであったともされ、丹波・湯浅氏は家紋は細川氏と同じ「九曜」です。
これが本当だとすると、湯浅宗清は、細川忠興と腹違いの子だったと言う可能性は高いと推測致します。


さて、気になるのは、関ヶ原の戦いの際に、大谷吉継を解釈した、大谷家の家臣・湯浅五助です。
湯浅五助の出自などは不明になっていますが、大谷吉継の側近として側で仕えた武将ですので、それなりの身分であったとも考えられます。
この湯浅五助は、丹波・湯浅氏に関連する武将だったのではないかと妄想してしまいます。

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