本多忠政と本多忠刻とは?【姫路城主】本多家廟屋も

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本多忠政とは

本多忠政(ほんだ-ただまさ)は、本多忠勝の長男として1575年に生まれた。
母は正室である阿知和右衛門玄銕(阿知和右衛門玄鉄)の娘・於久(おひさ、見星院)
弟に本多忠政、父の側室・乙女が産んだ異母姉に小松姫などがいる。


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1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにて15歳で初陣すると、浅野長政、父・本多忠勝と共に攻撃した岩槻城の戦いにて戦功をあげている。

本多忠政の正室は熊姫(徳川家康の嫡男・松平信康の次女、妙高院)で、1596年4月14日に嫡男・本多忠刻(ほんだ-ただとき)が生れた。

1598年3月、本多忠政は従五位下に叙せられると本多美濃守忠政と称している。

1600年、石田三成との関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠勢に従って中山道を進み、真田昌幸との第2次上田城の戦いにも参戦した。

1609年6月、父・本多忠勝が隠居すると、家督相続し桑名藩の第2代藩主に就任。

桑名城

豊臣秀頼との大坂の陣にも参加すると、大阪冬の陣では1614年10月11日に、徳川軍の先鋒を命じられた。
本多忠政は大坂城包囲においては北側の天神橋方面にて指揮している。
なお豊臣勢と和睦となり、徳川家康の駿府への帰途の途中、本多忠政の桑名城にて徳川家康は1泊している。

また、大坂城の堀を埋め立てた際には、埋め立て奉行を松平忠明らと担当した。


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1615年、大阪夏の陣では京都御所の警備を勤めたのち、徳川家康の軍勢と共に南下し、5月7日に豊臣勢の薄田兼相や毛利勝永らと戦っている。
薄田勢には勝利したが、毛利勢の戦いには敗れるものの、この合戦で本多忠政は292の敵首を取ると言う活躍を見せた。

本多忠刻とは

本多忠刻(ほんだ-ただとき)は、前述のとおり本多忠政の長男であり、戦国時代の1596年に生まれた。
大阪夏の陣には本多忠刻も参戦しており、道明寺の戦いにて敵の首級を挙げているが、弟・本多忠朝(大喜多藩主)は討死した。

戦後、大阪の陣での功績を賞されて、1617年7月14日に15万石にて姫路城主となり、西国抑えを担い、1618年に姫路城を改修し、ほぼ現在にも残る姫路城の姿になった。

姫路城

なお、1616年9月29日、自刃した豊臣秀頼の正室であった千姫と本多忠刻が婚姻。
この婚姻については、大坂落城後の1615年7月に、千姫が江戸城へ戻る途中、桑名の七里渡しの船中にて、眉目秀麗で優雅さを持つ本多忠刻を見初めた為との逸話もある。
また、徳川家康が臨終の際に、千姫の今後を考えて本多忠刻と熊姫に婚姻を命じたとする説もある。
1617年、本多忠政とは別に、嫡男・本多忠刻は千姫の化粧料として10万石・姫路新田藩(具体的な領地は不明)を与えらた。
また本多忠刻は剣術を好み、宮本武蔵を迎えて家士とし、武蔵の養子・三木之助を小姓として側近に置いたと言う。

千姫と本多忠刻は、1618年に長女・勝姫(池田光政の正室)、1619年に長男・幸千代が生まれているが、1621年、幸千代は3歳で早世した。

1619年、福島正則が改易となった際に、本多忠政は広島城に赴いて諸事を奉行した。

1626年5月7日、本多忠刻が結核のため死去。享年31。
宮本三木之助(23歳)や岩原牛之助(211歳)は殉死した。


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1626年8月、本多忠政は従四位下に叙せられ、侍従に任命されている。

1631年8月10日、本多忠政が姫路城にて死去。享年57。

前述の通り、嫡男の本多忠刻が1626年に早世していたため、家督は本多忠刻の弟・本多政朝(大多喜藩主)が継いでいる。

本多家廟屋【書写山円教寺

姫路城から車で30分+ロープウェイの「書写山の本多家墓所」には、姫路城主であった本多家の墓所があります。

書写山の本多家墓所

本多家廟屋は、書写山・大講堂の東南の隅にあり、土塀で囲まれています。

書写山の本多家墓所

姫路城主・本多家の墓所であり、五棟の廟屋と本多忠刻らの墓碑が並んでいました。

書写山円教寺の本多家墓所

五棟の廟屋は、1626年に本多忠勝廟所、1631年に本多忠政廟所、1638年に本多政朝廟所、1685年に本多政長廟所、1704年に本多忠国廟所が建立されました。

書写山円教寺の湯屋橋

千姫と結婚した本多忠刻は墓碑のみとなっています。
ちなみに。廟所の内部は日曜・祝日のみ開門するそうなので、平日に訪れた関係で外からのみの撮影でしたことお詫び申し上げます。

本多忠刻の墓碑

右の大きいのが本多忠刻は墓碑で、左側は千姫との子である本多幸千代の墓です。
また、本多忠刻の死の際に殉死した宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓もあるようですが、どれだかはわかりませんでした。
当時、書写山は女人禁制であったことからか、千姫の墓などはありません。


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書写山の本多家廟屋は下記の地図ポイント地点の場所となります。
地図は縮尺を変えてご覧願います。

下記は書写山にある湯屋橋です。

書写山円教寺の湯屋橋

本多忠政は1620年頃にこの「湯屋橋」を寄進しました。
湯屋橋は、はづき茶屋の脇にある橋となりますので、行けばわかるでしょう。

その他の書写山円教寺や行き方・駐車場情報などに関しては下記の別ページにてご紹介させて頂いておりますので、あわせてご覧頂けますと幸いです。

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