藤原定家の解説~平安・鎌倉の激動期を生き抜いた大歌人~

藤原定家とは

藤原定家(ふじわらの‐ていか。もしくはさだいえ)は、応保2年(1162年)に藤原北家御子左流の藤原俊成と、その妻である美福門院加賀との間に次男として生まれました。同母の兄弟として家成と言う長兄がいます。

定家は仁安元年(1166年)には従五位下の官位を賜り、安元元年(1175年)には父の俊成が右京大夫を辞任したのに伴って侍従職を拝命しました。しかし、同年には赤斑瘡(あかもがさ。今の麻疹と言われる)に罹患し、その翌年には俊成が咳病悪化を理由に出家するなど、若き定家の官途には困難が立ちふさがります。

それに追い討ちをかけるかのように安元3年(1177年)には疱瘡に感染、それ以降も呼吸器の病を抱えるようになり、定家は生涯に渡って虚弱体質に悩まされる事になってしまうのです。しかし、そんな彼を歴史に名を残す偉人となさしめた出来事がありました。それこそが、治承2年(1178年)に賀茂別雷神社で開催された歌合です。

歌合の相手は5歳年上の滋野井公時で、定家は彼と三首の歌を競って引き分けます。この歌は定家の処女作と言われており、それ以降の定家は歌人としての人生を邁進します。養和元年(1181年)には『初学百種』を詠み、翌年には俊成の命で『堀河院題百首』を完成させ、その出来栄えには両親ばかりか時の右大臣・九条兼実を始めとした多くの人が絶賛しました。

また、父に師事していた歌人・藤原季能の娘を妻に迎えており、寿永3年(1184年)に長男の光家を儲け、文治2年(1186年)には九条家の家司として仕え、摂政になっていた兼実や彼の弟である慈円、兼実の次男である九条良経と言った人々と親しく交際します。文治元年(1185年)の新嘗祭で自分を侮辱した源雅行と言う貴族を脂燭(照明器具)で殴りつけて除籍され、父・俊成が後白河法皇の側近にとりなしを求めて許される事件を起こすものの、九条家に仕官して以降は主家の後ろ盾もあって定家は順調に出世していきました。

後鳥羽上皇との確執

しかし、定家の順風満帆な家司生活に待ったをかける事件が起こります。建久七年(1196年)の政変で兼実が失脚し、その4年後に院初度御百首が企画された時も九条家に仕えていた定家も参加者から除名される仕打ちを受けました。しかし、俊成や義兄弟に当たる西園寺公経らの働きかけで定家は復帰、建仁元年(1201年)には後鳥羽天皇主催の千五百番歌合への参加や『新古今和歌集』の撰者任命など、天皇は彼の文才を絶賛します。

歌人・文人としての活躍を見せる一方で出世への願望は潰えていなかったらしく、定家は後鳥羽帝の乳母である藤原兼子の歓心を得るべく姉の九条尼と共に運動を行い、建暦元年(1211年)には従三位・侍従を、建保4年(1216年)には正三位と、50歳を過ぎて高い公卿の位を得ることに成功しました。また、承元3年(1209年)には源実朝の依頼で彼の和歌を添削しており、定家は文通とはいえ鎌倉幕府とも深い関係を持った歌人でした。

しかし、定家にはまたしても災難が襲いかかります。承久2年(1220年)に順徳天皇が開催した歌会で彼が詠んだ歌が、後鳥羽上皇の怒りを招いたのです。その理由については昇進にまつわる不満を定家が歌に詠んだとも、定家の自宅にあった柳を後鳥羽上皇が挑発したからとも言われています。いずれにしても上皇の逆鱗に触れた定家は、謹慎させられて歌壇への出入りも禁じられたのでした。

政界引退と小倉百人一首

こうして苦境に立たされた定家でしたが、翌年にその運命は好転します。承久の乱が勃発し、敗れ去った後鳥羽上皇が流罪に処される一方で、西園寺や九条が勢力を盛り返したことで定家の出世は再び順調なものとなったのです。早くも承久4年(1222年)には従二位、5年後には正二位にまで登り詰めました。寛喜4年(1232年)の正月には、かねてからの運動の甲斐あって70過ぎの高齢ながらも権中納言の位を賜りました。

この権中納言は同年の12月に罷免されてしまいますが、翌年には出家して明静と言う法名を名乗り、以後は政界を退いて歌の撰者として活動を続けます。天福2年(1234年)には後堀川上皇の希望に答えて1498首もの歌を清書し、嘉禎元年(1235年)には宇都宮頼綱の依頼で100人の歌人が詠んだ歌を書き上げました。この歌こそが小倉百人一首の始まりとなった秀歌撰です。

百人一首の完成から6年後の仁治2年(1241年)、美の追求と政界での栄達を夢見て源平合戦、鎌倉開府、承久の乱と言った激動に彩られた時代を生きた藤原定家は80年の生涯を終えます。定家の功績は和歌のみならず、56年間もの間記録され続けた日記『明月記』や彼が注釈した古典で用いられた仮名遣いが起源となった定家仮名遣など、後世の日本文化に多大な影響を与えました。

また、物語文学『松浦宮物語』の作者が定家であるとする説や、先述した雅行への暴行事件で上野国(群馬県)に流されたとする伝承が今も残る定家神社(群馬県高崎市)の由来とする伝承が存在するなど、病弱な身体と激情的な性格を抱えて乱世を生きた文学青年・藤原定家の足跡は不滅のものとして残り続けています。

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