藤原為時の解説【光る君へ】漢詩の才能に長けた紫式部の父

太田先生

大河ドラマ『光る君へ』の主人公である紫式部と言えば平安朝を代表する女流文学者の一人ですが、その父である藤原為時(ふじわらの‐ためとき)も才能に優れた当代きっての文人でした。本項では、その生涯と業績について紹介していきます。

藤原為時とは

世界的に有名な文学者・紫式部の父であるにも関わらず、藤原為時の生年は正確には分かっておらず、平安時代の天暦3年(949年)に生まれたとも言われています。
安和元年(968年)に播磨権少掾の位を賜り、貞元2年(977年)に時の皇太子であった師貞親王(のちの花山天皇)の御読書始で副侍読を務めているため、その時点では宮中に仕官、出資できる年齢になっていたようです。

2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では俳優の岸谷五朗さんが藤原為時を演じられます。

若き日の為時は菅原文時を師として紀伝道、(大学寮で歴史や漢文学を学ぶ学科)を専攻し、文章生となった人物でした。
なお、この文時は学者の家柄として名高い菅原氏の出身で、かの菅原道真の孫に当たる人物です。
教養とりわけ漢文に一家言ある菅原氏のもとで習得したであろう豊かな漢文学の素養は、後に為時を助ける事となります。


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永観2年(984年)に師貞親王が即位して花山天皇になると、為時は式部丞ならびに六位蔵人の官位を賜りますが、彼が就いた式部丞こそが紫式部の名の由来です。
しかし、2年後に起きた寛和の変で天皇が退位・出家させられると官職を辞任、10年に渡って散位(位階のみ持って官職を持たない事)に追い込まれます。

文才は身を助く

しかし、状況が好転したのは長徳2年(996年)のことです。
為時は正月に淡路守に任ぜられ、更には藤原道長の尽力で豊かな大国である越前守として任地へ向かう事となります。
この逆転劇を招いたとして有名なのが、彼が朝廷に捧げた漢詩の才能でした。

「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼(寒い夜にも耐えて苦学したのに希望の位が与えられず、血のような涙が襟を濡らしています。
人事の翌朝は、青々とした天が目にしみるものでございます)」

この名詩には様々な解釈があるので本稿では割愛しますが、望んだ位に就けない無念さを見事に歌い上げ、これには道長ばかりか時の帝であった一条天皇もいたく感じ入り、道長の乳兄弟だった藤原国盛の任官する越前守と為時の淡路守を交換する人事がなされたというものです。


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なお、この人事の裏には越前に来着した唐人・朱仁聡との交渉役として漢文を得意とする為時が選ばれたとする説も存在します。
ようやく日の目を見た為時は順調に役人の職務を果たせたらしく、寛弘6年(1009年)に正五位下・左少弁、2年後には越後守を拝命しますが、任期半ばの長和3年(1014年)に辞任、帰京しました。

我が子らに先立たれた晩年

なぜ、為時は長年にわたって培った文才を大切にし、辛い境遇にも耐えてようやくつかみ取った富と栄誉を捨ててまで帰京したのは不明です。
一説には紫式部を亡くしたからとも言われており、越後赴任の年には長男の惟規にも先立たれているなど、彼の身辺には不幸な出来事が起きていました。

京都に帰った為時は長和5年(1016年)に三井寺で出家し、その2年後に藤原頼通に屏風の料として漢詩を奉っていますが、一説には没年が長元2年(1029年)と言われている事を除けば、彼の正確な享年は分かっていません。
同時代の歌人である大江匡衡は凡位を超える詩人として為時を評価し、その詩歌は『本朝麗藻』や『後拾遺和歌集』、『新古今和歌集』に収録されました。


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当時こそ一流の文人として名を馳せ、人事すら覆す快挙を成し遂げた藤原為時は、今では才女・紫式部を育てた父として見られる事が少なくありませんが、親子で日本の王朝文学に貢献した功績は確固として、文学史に残り続けています。

(寄稿)太田

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