藤原道長の何がすごいのか?わかりやすく解説【光る君へ】

藤原道長

藤原道長とは

藤原道長(ふじわら の みちなが)は平安時代中期の966年に生まれた公卿・政治家。
父は藤原北家の従一位で、摂政、関白、太政大臣を務めた藤原兼家の5男(6男)とされる。
母は一条天皇・三条天皇の祖母にあたる藤原時姫(ふじわら の ときひめ)。
藤原道長の兄弟としては兄に藤原道隆・藤原道兼、姉妹に藤原超子・藤原詮子らがいる。

父・藤原兼家(ふじわら の かねいえ)は、策略にて花山天皇を退位させて、娘・藤原詮子が生んでいた一条天皇を即位させると摂政となった。

藤原道長の妻としては、宇多源氏の源倫子(ともこ) (鷹司殿) を正室に迎え、醍醐源氏の源明子(あきこ) (高松殿) を本妻にした。
988年、長女・藤原彰子が源雅信の土御門殿で生まれている。


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藤原道長も991年に26歳の若さで権大納言(ごんだいなごん)に就任。
しかし、兄に藤原道隆(みちたか)、藤原道綱(みちつな)、藤原道兼(みちかね)といたため出世は期待できなかった。

しかし、995年4月、関白・藤原道隆が病で倒れた。享年43。
藤原道隆の死因は飲水病(糖尿病)の悪化。
なお、この頃の京都では「はしか」が猛威をふるっていたようで公卿らも次々に死去しており、関白を継承した藤原道兼も、在職僅か7日で没した。
そうした状況から、藤原道長やその嫡子・藤原頼通らは怨霊を恐れている。

ただし、995年5月姉・藤原詮子(あきこ)の推挙にて藤原道長が内覧の宣旨を被り、6月には右大臣となって藤原氏長者となり政権の座についた。
そのため、藤原道長は、亡き藤原道隆の嫡男・藤原伊周と対立している。
<注釈> 内覧の宣旨(ないらんのせんじ)とは、摂政・関白以外の公卿が、天皇に奏上まえに文書を内見して政務処理する役目の事。

藤原伊周と、名門・藤原公任(きんとう)を抑えた藤原道長(22歳)は、源俊賢(みなもとのとしかた)、藤原行成(ゆきなり)らの協力を得て政権強化を図っている。


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998年、藤原道長は一時大病(糖尿病?)を患い、一条天皇も困り果てたが、平癒すると政務に復帰している。
藤原道長は美酒美食に明け暮れて運動不足だったようで、さらに権力闘争でのストレスもあり、しばしば口の渇きを訴えている。
昼夜なく水をほしがり、脱力感にもおそわれていたようだ。

999年11月、長女・藤原彰子(12歳)が第66代・一条天皇のもとに女御として入内させ、1000年2月には中宮(ちゅうぐう)となっている。
この藤原彰子の女房としては、源氏物語紫式部、歌人でもある和泉式部、栄花物語の赤染衛門(あかぞめえもん)などが見受けられる。

このような経緯からも、源氏物語の光源氏は藤原道長がモデルで、物語は藤原氏の栄華の写しとも考えられている。
紫式部は1012年頃まで奉仕したようだ。

1011年、一条帝が崩御し三条天皇が第67代天皇となるが、三条天皇は眼病を患うと藤原道長は譲位を迫った。
1016年正月、三条天皇は譲位し、東宮・敦成親王が即位している(後一条天皇)。
藤原道長は摂政の宣下を受け政権を独占した。

1017年、藤原道長は嫡男・藤原頼通に摂政を譲って太政大臣となり、翌年らは辞して隠居した。
1018年、後一条天皇が11歳になると、藤原道長は三女・藤原威子を女御として入内させている。

晩年に出家すると法成寺(ほうじょうじ) を建立・造営に心血を注いでいる。

1028年1月、藤原道長は病没。享年62。
糖尿病の症状が悪化したようで敗血症に陥り、多臓器不全で他界したようだ。
日記に「御堂関白記」があるが関白になったことはなかった。


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此の世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたる事も無しと思へば

の歌が有名である。

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