源義賢(みなもと-の-よしたか)は平安時代末期の武将です。
父は河内源氏の棟梁・源為義(ためよし)で、母は六条大夫重俊の娘です。
兄に源義朝(よしとも)がおり、その嫡男はのち鎌倉幕府を開く源義朝となります。
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1139年、源義賢は、東宮体仁親王(近衛天皇)を警護する春宮帯刀先生(東宮帯刀先生)になりますが、翌年、殺人犯に関与していたとして解官されました。
帯刀先生は「たちはきせんじょう」と読みます。
その後、父と共に摂関家・藤原頼長に仕えたため、1143年、藤原頼長の能登庄を預けられました。
しかし、4年後に年貢未納のため解任され、京堀川の源氏館に戻っています。
1153年、父と不仲になっていた兄・源義朝が南関東で独自勢力をつけると、対抗するため、源義賢は上野国多胡郡に下向します。
そして、大蔵館主・秩父重隆の婿となり武蔵北部に勢力を伸ばしました。
なお、1154年には、次男・駒王丸が大蔵館から近い場所で生まれています。
1155年8月、秩父一族内部の家督争いもあり、畠山重忠が鎌倉にいた南と義朝の子・源義平(15歳)らと大蔵館を襲撃して大蔵合戦になりました。
このとき、岳父・秩父重隆と源義賢は敗れて死去しました。
なお、2歳だった駒王丸(木曽義仲)は乳母らと逃されて、のち、成長すると激闘を繰り広げることになります。
長男・源仲家(なかいえ)は、母・藤原宗季の娘と一緒に京にいたため難を逃れましたが、1180年に摂津源氏の源頼政が挙兵した際に従い、宇治平等院の戦いにて討死しています。
その大蔵館跡の近くには、源義賢の墓と源氏三代供養塔があります。
源氏三代供養塔
源氏三代供養塔が埼玉県嵐山町大蔵にあります。
源義賢、源義仲(木曽義仲)、源義高(木曽義仲の子)の3代の供養塔と言う事になります。
3代の他にも、源為義、源義家など、源氏の一族の供養塔がたくさんあります。
源氏ファンには欠かせないスポットと言えるでしょう。
墓所の中に無料駐車場が完備されていますので、訪れやすいです。
その源氏三代供養塔がある場所のすぐ向かいに、本物の源義賢の墓があります。
源義賢の墓
源義賢の墓も、地元の方によって、きちんと整備されていました。
次男だった源義賢は生年が不明ですので、何歳で討死したのかわかりませんが、源頼朝の父である長兄が1123年生まれで、弟で生年がわかっている源為朝(8男)が1139年であることを考慮しますと、恐らくは享年は32前後と推測されます。
さて、源義賢の墓と源氏三代供養塔がある場所へのアクセス・行き方ですが、東武東上線の武蔵嵐山駅から徒歩で約20分となります。
駐車場がある場所は、当方のオリジナル関東史跡地図にてわかるようにしております。
クルマで移動したほうが良いですが、木曽義仲の産湯とされる鎌形八幡神社とセットでどうぞ。
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