蠣崎義広(かきざき-よしひろ)は、蠣崎光広の子として1479年に生まれました。
1512年に、蝦夷地のアイヌ村長でるショヤ(庶野)とコウジ(訇時)の兄弟が蜂起した、ショヤコウジ兄弟の戦いでは、上国守護職であった父・蠣崎光広と撃退しています。
また、1514年には、アイヌ勢に奪われていた徳山館(松前大館)を手に入れましたが、このアイヌ蜂起は、父・蠣崎光広による謀略とする場合があります。
蠣崎氏は安東氏に従っており、安東尋季の裁定を受けて、まだ家督は継承していませんでしたが、上国松前両守護職に蠣崎義広が補任されています。
こうして、蝦夷地を訪れる和人の商船から、交通税の徴収を認められ、蠣崎氏の経済力が高まりました。
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父・蠣崎光広(蠣崎光廣)は、1518年7月12日に死去。
家督は、蠣崎義広が予定通り継いでいますが、アイヌとの戦いは、1525年、1528年と続きました。
特に1528年には徳山館が攻撃され、蠣崎義広は自ら槍を振るって応戦したと言います。
そして、1529年の戦いでは、工藤祐兼・工藤祐致の兄弟に命じて西蝦夷のタナサカシの本拠を攻撃しました。
しかし、敗戦して工藤祐兼が戦死し、逆にタナサカシの軍勢に勝山館を包囲されたため、蠣崎義広は和議を申し出ています。
ただし、これは策略で、城外の坂の途中に賠償品を置いて、受け取りに来たタナサカシを弓で暗殺して勝利しました。
このように、蝦夷ではアイヌ相手に、だまし討ちすることが多いです。
1531年にも徳山館が襲撃されますが、嫡子・蠣崎季広が奮戦して撃退しています。
その後、天文5年(1536年)には、タナサカシの娘婿・タリコナが、妻であるタナサカシの娘に、促されて蜂起します。
兵力劣った蠣崎義広は、またしても、和議を申し出てこの夫妻を誘い出した酒宴の席で、蠣崎義広は自ら夫妻を斬殺しました。
1543年、蠣崎家は家臣を若狭に遣わし、宗家とも言える武田信豊に敬意を表しています。
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蠣崎義広は1545年8月19日に死去。
正室・薦土季成の娘との間に生まれていた、蠣崎季広が第5代当主となっています。
蝦夷地探訪シリーズ
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