武田元繫とは
武田元繁(たけだ-もとしげ)は安芸武田氏の武田元網の息子として生まれます。生年は不明です。
武田氏は清和天皇を祖先とする清和源氏、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光を祖とします。
安芸武田氏は、鎌倉時代に武田氏が安芸守護に任じられたことが始まりで、室町時代には安芸守護を解任されてしまいますが、その後も金山城(佐東銀山城・銀山城)を居城とした分郡守護として存続、室町幕府6代将軍足利義教の代には若狭守護職を任命され本拠地を安芸から若狭に移しています。
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こうして若狭武田氏は安芸武田氏の惣領家と言われる家柄になりますが、武田元繁の父武田元綱が応仁の乱の最中に東軍であった若狭武田氏と別行動を取り西軍に寝返ります。
乱終結後、元網と若狭武田氏は一旦和解しますが、元繁が家督を継ぐと再び安芸武田氏は若狭武田氏と別の道を辿ります。
永正5年(1508年)6月周防大内氏当主大内義興が、明応の政変によって幕府を追われた室町幕府10代将軍足利義稙(当時足利義材)を奉じて上洛を果たします。
このとき、武田元繁は大内方として上洛軍に参加しており、安芸武田氏は現政権の第11代将軍足利義澄方であった若狭武田氏より独立します。
しかし、大内軍の上洛が長期化すると従軍する武士に問題が起こり、安芸では厳島神社家において後継者を巡る内乱が勃発、この沈静化を図るため永正12年(1515年)に大内義興は武田元繁に帰国を命じます。
このとき義興は元繁の裏切り防止として、自身の養女を元繁に嫁がせています。
こうして帰国した武田元繫ですが、帰国後すぐに大内義興の養女と離縁し大内氏を離反。
そして当時出雲より代頭してきた出雲尼子氏当主尼子経久の弟、尼子久幸の娘を妻に迎え反大内・尼子方の立場を明確化します。
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その後武田元繁は、東西に分裂していた厳島神主家の東方を支援、大内氏と繋がっている西方の大野河内城を攻略し己斐城を囲みます。
この元繁の動きに対して大内義興は、安芸の大内方陣営である毛利氏と吉川氏に救援を命じ、毛利・吉川両軍は安芸武田氏諸城の有田城を攻め落とします。
この戦況により己斐城から撤退した元繁は、有田城を奪還しようと試みますが失敗。安芸武田氏と毛利・吉川両氏の対立は決定的となります。
武田元繁の最期
永正13年(1516年)8月、武田元繁と敵対する毛利氏当主毛利興元が病死、幼少の毛利幸松丸が家督を継ぎます。
この興元の死を好機とみた元繫は翌永正14年(1517年)10月有田城攻略を開始、同月22日毛利幸松丸の後見役を務めていた毛利元就率いる毛利軍と吉川軍両軍と激突します。
『陰徳太平記』によると、毛利軍襲来の報せを受けた武田元繁は、重臣の熊谷元直に迎撃に当たらせますが元直は毛利軍の攻撃を受け討死、この敗戦に激昂した元繁は自ら主力軍を率いて毛利軍を攻撃します。
そして数で勝り優勢であった武田軍が、元繁自ら毛利元就と戦うべく又打川を渡ろうとしたところに毛利軍が一斉に矢を放ち、矢を受けた元繁が落馬して討ち取られます。
この戦いの信憑性は定かではありませんが、安芸武田氏当主・武田元繁、熊谷元直たち重臣たちが有田中井手の戦いと言われる戦いで戦死したことは確かなことで、この戦いは後に中国地方の覇者となる毛利元就の初陣として語り継がれ、西の桶狭間と呼ばれるようになります。
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当主の討ち死にという最悪の結末に終わった大内方との戦いですが、その後も安芸武田氏は大内方の攻撃を幾度か防ぐ力は残しており、その生末は武田元繫の息子である武田光和に引き継がれるのでした。
(寄稿)kawai
・武田光和の解説~大内氏・毛利氏と戦った源氏の名門・安芸武田氏
・Kawai先生の寄稿シリーズ
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