源倫子とは
源倫子(みなもとのともこ、※1)は、康保元年(964年)に宇多源氏に属する公卿・源雅信と、その正室である藤原穆子の娘として生まれました。父方の祖父は宇多天皇の子である敦実親王、祖母は藤原時平の娘で、親王の父である宇多天皇は曽祖父に当たります。
2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では、俳優(女優)の黒木華さんが源倫子の役を演じられます。
皇室に連なるやんごとなき系譜に生まれ育った倫子を、父の雅信は天皇の后にしようとしていましたが、そこに求婚者として現れたのが若き日の藤原道長でした。当初、道長との縁談を雅信は断るつもりでいましたが、花山天皇の退位や幼い一条天皇が即位したことなどで断念せざるを得なくなり、妻の穆子が進めたこともあって倫子は道長と結ばれます。永延元年(987年)のことでした。
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当時、倫子は道長より2歳年上の24歳で、自分に求婚してくれた道長とめでたくゴールインしたことからか夫婦仲は良かったらしく、彼女との間には6人の子供が生まれました。翌年に生まれた長女の彰子は後に12歳で一条天皇の后となり、後一条天皇・後朱雀天皇を産んでいます。
最も栄達した女性のひとり
更に正暦3年(992年)には長男の藤原頼通が生まれ、倫子は后の母のみならず嫡男の母にもなったのでした。他にも、次女の妍子、五男の教道、四女の威子、六女の嬉子と言った子供達は天皇や皇子の后妃、ないしはその父として道長の偉業を支えることになります。
また、倫子と道長の婚姻が寄与したのは、藤原氏の繁栄のみではありませんでした。かねてから政治面でのライバルだったと言われる道長の父・兼家と雅信の緊張した関係が、この婚姻で緩和に繋がっていきます。宇多天皇、時平双方の血をひく雅信の名声と財産、中でも倫子・道長夫妻の邸宅として継承された土御門邸は、若い2人が築く栄華を大いに助けるものとなりました。
長徳4年(998年)の正月に行われた女叙位(女性に五位以上の位階を授ける儀式)で倫子は従五位上に叙せられ、同10月には一条帝に彰子を入内させるにあたって彼女を付き添いにする意図があった道長の姉・詮子の推挙で従三位を賜ります。彰子が長保2年(1000年)に立后すると土御門邸から入内したことを理由に従二位を与えられました。
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その後も倫子の昇進は続き、寛弘3年(1006年)に正二位、寛弘5年(1008年)には敦成親王が生まれたことで従一位に叙せられ、この事例は無官の女性が従一位になった最初の例と言われています。これは当時正二位だった道長が辞退したために一条帝が妻に与えたとも言われていますが、一時的とはいえ倫子が道長(※2)よりも高位に上った時期でもありました。
摂関家の行く末を見守った晩年
皇室ゆかりの名家に生まれ育ち、最高権力者を夫に持った彼女の人生を見ると、そうした出自を理由に高位を賜ったかに見られがちですが、先述したように倫子は土御門邸で入内した娘らを育てて入内の後も付き添っており、その献身的な働きと人格による朝廷への貢献は並々ならないものがあります。
また、嫡男の頼通が婚姻の問題で病床に伏した時も道長と共に彼を看病し、平癒を願った逸話があるなど高貴な地位にありながらも愛情を忘れない、家族思いな性格でもありました。長和6年(1017年)に頼通が藤原氏長者になり、その10年後に道長が死去したのちも藤原氏を支えた倫子は、長暦3年(1039年)に出家します。そして、天喜元年(1053年)に短命だった夫や彰子と2人の息子(※3)を除く子供達とは対照的に90歳の長寿を保って死去しました。
※1りんし、みちことも。
※2道長が従一位になったのは長和6年(1017年)
※3長女の彰子は78歳、頼通は83歳、教通は80歳。
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参考文献
日本古典文学全集 栄華物語1~3巻
(寄稿)太田
・大田先生のシリーズを見てみる
・藤原頼通の解説【光る君へ】長きに渡って摂関家を支え続けた藤原道長の長男
・紫式部(まひろ)はどんな女性?わかりやすい解説【光る君へ】
・光源氏とは 源氏物語の主人公
・源雅信を分かりやすく1分で要点解説【光る君へ】円融天皇から頼りにされた宇多源氏の祖
・源明子をわかりやすく1分で解説【光る君へ】藤原道長のもうひとりの妻
・藤原道長の気になる「妻」「妾」一覧リスト【光る君へ】6人の妻と紫式部との関係は?
・光る君へ【キャスト・出演者一覧リスト】NHK大河ドラマ2024年
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