戦国時代に暗躍する忍者の存在
近年の大河ドラマ『麒麟がくる』で登場した菊丸(岡村隆史)や『どうする家康』でも活躍する服部半蔵(山田孝之)など、戦国時代のドラマで数多く登場する“忍者”の存在
敵に決定打を与えるような表立った行動は少ないものの
スパイや情報収集など、ドラマの主人公(大名や武士)にとってなくてはならない存在となっている
忍者は「忍びながら行動する者」たちのため、一級史料に登場することはほとんどない
しかし、戦国時代は忍者の存在抜きでは語れない
この記事では戦国時代の入口となった応仁の乱後の9代将軍足利義尚(あしかが よしひさ)と六角高頼との戦いを軸に
忍者を考察していく
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忍者はいつ、どこで誕生したか
忍者の起源について、はっきりしたことはわかっていない
中国から伝来した説もあれば、日本で独自に発生した説もある
例えば、中国から伝来した説では『孫子』に手がかりがある
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」
(要約)敵軍の状態をしっかり知っておき、自軍のことも理解しておけばどんな戦いも危なげなく勝てる
ここでは、敵の情報を事前に探るためのスパイ(=隠密行動をとれる者)の存在を重視しているのである
中国の春秋・戦国時代という戦乱の世の中では、敵の情報をいかに正確に多く集めるかが勝敗の鍵となっていた
古来から日本と中国は関係が深いため、中国の春秋・戦国時代の知恵が忍者の源流となっている可能性は大いにあると言えるだろう
ただ、中国に忍者の源流があるという証拠は見つかっていないため、今後も検証が続くだろう
<戦国時代に活躍した代表的な忍者集団>
①戸隠(とかくし)
修験道の聖地・上水内郡戸隠(現在の長野県)で修行を積んだ仁科(戸隠)大助が伊賀で体得した武術が基本をなった一派
②北条
風魔小太郎が率いる忍者集団。略奪や強奪を繰り返した盗賊とも言われるが、夜の急襲が得意で、戦乱で多くの敵を恐怖に陥れた
③甲賀
甲賀郡(現在の滋賀県)におこった忍術集団。集団戦法が得意で、集団による様々な作戦を実行した。足利義尚軍との戦いは、夜襲を実行し、数に劣る六角高頼を勝利に導き戦国の世を驚かせた
④武田
甲斐武田氏に仕えた忍者集団。情報収集に長けており、『どうする家康』にも登場する歩き巫女など、武田氏は忍者を軍団に組み込み、軍の力を最大化した。
⑤真田
戦国大名・真田氏の故郷にある四阿山(あずまやさん)(長野県)には修験道の道場があったとされ、独自の忍術修行が積まれていた
⑥伊賀
甲賀と並び有名な忍者集団。伊賀国(現在の三重県)が発祥の地とされ、百地三太夫、服部半蔵と行った忍者を輩出した
⑦雑賀(さいか)・根来(ねごろ)
ともに紀州(現在の和歌山県)を本拠地とした。この地域は鉄砲の名産地だったため、根来忍者も雑賀忍者も鉄砲を戦術に取り入れ、うまく活用した。雑賀は報酬を受け取って戦闘に参加する傭兵集団だったのに対し、根来は根来寺を拠点とする僧兵集団だった。江戸時代8代所軍徳川吉宗が創設した御庭番※(将軍の命令を受けて、スパイ活動を行う者)は、紀州出身の吉宗が隠密行動の上手い雑賀・根来衆の存在を知っており、活用したとされている。※御庭番のルーツも雑賀・根来衆とされる。
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忍者が注目されるきっかけは室町幕府9代将軍足利義尚VS六角高頼の1487年「鈎の陣」の戦い
忍者に注目が集まったのはいつか?
きっかけとしてよくあげられるのが、1487年の鈎の陣の戦い(1487~1489)※からである
※室町幕府9代将軍・足利義尚(1465~1489)が六角高頼を攻めた戦い。近江の国の鈎(まがり)に出陣したところからこの名がついている
応仁の乱後、社会が混乱する中で公家領・寺社領を私領化していった六角高頼(?~1520)※を討伐するため、将軍義尚が出征した
※六角高頼は、近江国の守護で戦国大名として、9代将軍義尚、10代将軍義稙(1466~1523)と争った
足利義尚は六角氏に確実に攻め勝つため、3万人もの討伐軍を編成した
応仁の乱後、地に落ちた幕府権力を復活させたい足利義尚
足利義尚は8代将軍足利義政と日野富子の間に生まれた嫡男で、応仁の乱最中に幼少のまま1473年、9歳という若さで将軍に就任した※
※年齢が若い故に、将軍時代の前半は大御所・足利義政や母・日野富子、親戚の日野勝光らが実権を握っていて義尚は実質傀儡政権だった
足利義尚が六角氏征伐を行ったのは、幕府権力の復活という目的もあった
応仁の乱によって、室町幕府の権力は完全に弱体化していたからである
室町幕府は応仁の乱の一因(将軍跡継ぎ問題)を作ったことに加え、応仁の乱が長期拡大することを防げなかった
六角氏との戦いに圧勝することで、義尚は室町幕府復権を世に示したいという想いを持っていた
六角氏も義尚軍に対抗するため6千人の兵を集めた
六角高頼は足利義尚軍とどう戦ったか
数では勝算がない六角氏
六角氏は足利義尚軍との戦いのために総力をあげて兵を結集したが、義尚率いる奉公衆の猛攻に押し込まれた
押し込まれた六角高頼は、甲賀への後退を余儀なくされる
ここで、六角高頼が頼った者たちの中に前述の甲賀の忍者がいた
この忍者集団が、義尚軍との戦いでは独特の戦法を駆使して大きな戦果をあげることになった
ゲリラ戦法による義尚軍攻撃
その戦法とは、敵を山中に引き込み、消耗したところを狙って夜襲をしかけることだった
地に詳しい甲賀の忍者を活用し、敵の動きを情報収集しながら険しい山中に引き込み、姿を隠して義尚軍を消耗させた
そして、義尚軍が疲れてきたところを見計らい、一気に急襲
幕府軍は劣勢に追い込まれた
苦戦している状況を見て、管領・細川政元は義尚に一度近江国坂元へ引くよう進言したが、
義尚はこの意見を拒み六角氏を討った後に京へ帰るという政元の提案と真逆の決断をした
この後の義尚は悲劇続きとなった
まず、近臣結城政広が幕府からの命令と偽って寺社領を私領化
細川政元の報告により、義尚は結城の処罰対応に追われた
さらに、家臣の富樫政親は自領(加賀)で一向一揆が起こり、義尚軍から戦線離脱をする
将軍権力の強化にこだわる義尚と管領・細川政元の間にもすきま風が吹き、六角氏征伐は一向に進まなかった
こうした現実から少しでも目を背けたかったのか、戦が続いているにもかかわらず
義尚は芸能行事(和歌会など)に勤しみ、深酒を繰り返す
不摂生がたたり、最後は重病となり近江の鈎の陣中でその生涯を閉じた※
※陣中で没したというところから忍者たちによる暗殺という説も残っているが詳しいことはわかっていない
鈎の陣の意義 忍者の存在が知れ渡るきっかけになった
幕府の正規軍を率いる足利義尚の軍勢に、甲賀の忍者たち(非正規軍)が大勝利をあげたことは大きな意味を持つものだった
戦いに必要な情報収集を行うことに加え、戦時中の貴重な戦力としても利用価値が高いことを自ら証明したのである
この後、
・徳川氏の配下となった伊賀の服部半蔵
・北条氏に従った風魔小太郎
・毛利氏の世鬼衆
・織田信長に対抗した雑賀衆・根来衆
・豊臣秀吉の暗殺を企て、釜ゆでの刑になった石川五右衛門
など、多くの忍者(忍者集団)が戦国の世で活躍した
しかし、戦乱の世だからこそ戦前の隠密行動や情報収集役として必要とされたが
江戸時代、世に平和が訪れる中で忍者の必要性も薄らいだ
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1637年に起こる島原の乱を最後に、忍者たちの活動を推測できる記録は残っていない(御庭番は忍者の流れをくむ者たちで、戦国時代の忍者とは一線を画す)
戦国時代を描く小説やドラマなどを見る際には、今後も主役の裏で暗躍する忍者の存在にも注目してほしい
(寄稿) とら蔵(とらぞう)
・島津忠良の功績~島津氏中興の祖・島津日新斎をわかりやすく解説
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