風魔党「風魔小太郎」(風間出羽守)の解説~北条家の忍者集団の謎をわかりやすく

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風魔小太郎とは

風魔党(風魔一党)は、相模・足柄を拠点とした忍者集団で、伊勢盛時(北条早雲)が相模に進出すると、北条氏の相州乱波として諜報活動・偵察・後方攪乱などで活躍した。
足柄山の麓にある風間谷が本拠地とされているが、馬を巧みに使いこなし、日本人離れした外見から、海外から移住してきた騎馬集団とする説もある。
風間谷がどこかは不明であり、そもそもあったのか、どうかも含めて、よくわからないのは、多くの歴史にて共通することであることを、今一度、指摘させて頂く。

その風魔党の忍者頭領は、代々「風魔小太郎」と言う名を継いでおり、風魔小太郎と言う人物がずっと続いているが、一番有名な風魔小太郎は、北条氏政北条氏直の時代の5代目・風魔小太郎となる。


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風魔小太郎の配下は約200人の乱破(忍者)がいて、4組に50人ずつ配置して行動した。これは、10000石相当の割り当て兵力となる。
風魔忍者は敵陣に忍び込んで、敵将を生け捕りにし、敵の馬の綱を切ってその馬に乗り、夜討ちをかけたと言う。
また、ほうぼうに放火し、四方八方に紛れ込んで、勝ち鬨をあげるので、敵はさんざん動揺したと記される。

なお、北条家が発した書状に度々「風間出羽守」と言う人物が登場し、警備や諜報の任に当たっていたことが伺える。
この人物が風魔小太郎と言う証拠は見つかっていないのだが、何代目かの風魔小太郎であると考えて良いだろう。

1546年頃、福島綱成(北条綱成)が守る川越城上杉憲政が攻めた際には、上杉勢は柏原(狭山市)に布陣した。
その布陣の状況を偵察したのが、風間小太郎から指導を受けていた二曲輪猪助とされ、初めに潜入してから数か月後になって、上杉勢に見つかり追われるものの、遂には逃げ切ったという。
 
1562年には、葛西城を忍びを使って混乱させ、その隙に北条勢が城内突入して葛西城を攻略している。
ただし、この忍びは本田清兵衛配下の乱波とされ、風魔党が活躍したと言う事ではなさそうだ。

1572年の北条家が出した書状では、岩井弥右衛門尉に対して、風間某が7月まで6ヶ村(現在の檜原村)に逗留するので宿の用意を命じて、不法があれば小田原城に訴えるように記載されている。
1573年には、百姓からの苦情で、風間某は武蔵国すな原(現在の埼玉県鴻巣市)での在宿を禁じられている。
これらによると、風魔党は諜報活動の傍ら各地で盗みなどもしていたと考えられる。


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風間出羽守は、岩付城の夜間警備を命じられており、1582年9月13日付けの北条氏政書状では、風間出羽守に信濃国と遠江国の戦況を知らせた上で、示し合わせて出陣するよう命じられている。
風間出羽守の嫡子に雨宮主水正という者がおり、岩付城下の妙円寺を開基した。

五代目・風魔小太郎(生年不明~1603年)は「身の丈七尺二寸(2m16cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という異様な姿だったという伝説が残っている。
1580年、武田勝頼と北条家が戦った黄瀬川の戦いでは、風魔忍者が闇夜に紛れて攪乱作戦を行い、目覚しい戦果を挙げた。
風魔一党は、夜であろうが大雨であろうが強風であろうが黄瀬川の激流をものともせずに騎馬で渡って武田勢の陣営を奇襲したと言う。
手当たり次第に将兵を生け捕りにしてなぶり殺し、陣馬の綱を切って回って火を放ち、鬨(とき)の声をあげ、武器・食料を略奪し、陣中を恐怖に陥れて引き揚げたので、武田勢は震え上がったと言う。この風魔一党の夜討ち・奇襲は毎夜のように続いた。
ある夜、武田勢はの兵10人ほどが、風魔一党に一矢を報いようと、夜討ちの帰りに風魔党のなかに潜り込んで、北条の陣に向かおうとした。
その時、風魔小太郎の合図で一斉に松明を灯し、互いに声を出し合いながら、さっと立ち、さっと座った。
これは風魔の「立ちすぐり・居すぐり」という、紛れ込んだ敵忍者を見分ける合図(合言葉)で、それを知らない武田の兵は見破られ、ことごとく斬られた。

1582年に北条氏政が風魔出羽守に出した書状では、信濃・遠江の国境での戦功を賞している。
 
豊臣秀吉による小田原攻めにて、北条家が滅亡したあと、風魔小太郎と風魔一党は、江戸近辺を荒らし回る盗賊になったとされ懸賞金が掛けられた。
風魔小太郎は、1603年に盗賊・高坂甚内(甲斐武田家に仕えた忍者)の密告により徳川幕府に捕縛されて処刑されたと言われている。


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相模国の秦野に住み着いた秦氏一族は、280年頃にペルシャ辺りからインドを通じて朝鮮から渡ってきた民族だとする説もある。渡海して富士山麓に住み着いたのち、秦野に移り、その後、藤沢にも移り住んみ「からこさん(唐子さん)」と呼ばれた。
秦氏で最も有名なのは、聖徳太子に仕えた秦河勝で、広隆寺を創建したことでも知られる。
この秦氏が崇拝した宗教は「景教」で、この景教はキリスト教のネストリウス派なので、するとユダヤ人だとも言える。
と言う事もあり、風魔一党もこの秦氏の末柄であるとも言えるのではないだろうか?

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コメント

  • コメント ( 2 )

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  1. 風魔孫衛門

    小太郎の一族、孫衛門の子孫です。先祖の孫衛門率いる風魔忍者は300人おり、茨城県の逆井城を警備しとりました。後北条氏滅亡後は帰っても自分の領地はない訳ですから、現地解散。江戸時代は名主として造り酒屋をやっていたそうです。茨城県内だけでも風魔軍団の子孫は300家ある訳ですが、皆、余りあからさまに忍者の子孫ということは言いたがらないようです。多分、うちの先祖の配下だけでも300人いたということは全体では数千人はいたのでは??

  2. 風魔孫衛門さま、貴重な情報、誠にありがとうございます。
    とても参考になります。