藤原保昌の解説~和泉式部に愛された文武両道の平安ヒーロー

藤原保昌

和泉式部の再婚相手になった貴公子

藤原保昌(ふじわらのやすまさ)は平安時代の天徳2年(958年)に藤原致忠の息子として生まれました。
母は元明親王の娘で、姉妹には源満仲の妻がおり、他には斉光と維光、保輔という男兄弟がいます。


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従四位下を賜って右京大夫を務め、薫物(※1)の名手という文化人でもあった父を持った保昌が歴史の表舞台に登場するのは、30代の頃です。永延2年(988年)に円融院の判官代、その4年後には日向守になっています。寛弘2年(1005年)には肥後守、寛弘7年(1010年)に太宰少弐と九州各地の行政官を歴任しました。

その翌年には父と同じ従四位下に登り、長和2年(1013年)には大和守と左馬権頭を兼任、この年に和泉式部と結婚したと言われています。この時の逸話として名高いのが和泉式部にねだられ、厳しい警備の目をかいくぐって紫宸殿に忍び込んで梅のひと枝を盗み出し、それを彼女に与えて恋を実らせたというものです。

昇進を重ね、文武で名を馳せる

和泉式部と結ばれてから7年後の寛仁4年(1020年)に保昌は丹後守として任国に下向し、万寿2年(1025年)には大和守、長元7年(1034年)には摂津守を歴任し、長く政界で活躍しました。丹後に向かう時に礼を欠いた怪しげな老いた武者に出会い、並々ならぬ武人だと保昌が見抜き、後でその正体が歴戦の猛者として名高い平致頼だったと判明した逸話が残っています。

また、保昌は父譲りの文化人でもあったらしく、『後拾遺和歌集』に彼の作品が収録されるなど、妻の和泉式部ほどメジャーではないものの、歌人としても優秀な人物としてその名を高めます。武勇と文化いずれも優れ、まさしく文武両道であった保昌がその人生を終えたのは摂津守に任ぜられた2年後の長元9年(1036年)、その時の官位は正四位下で享年は79歳でした。

説話の世界でも大活躍する保昌

その後、文化人にして剛毅な武将として藤原保昌は『今昔物語集』『宇治拾遺物語』などで大盗賊・袴垂を威圧して屈服させた伝説を始め、説話に多く描かれるようになり、彼が家司を務めた藤原道長・頼通親子の家臣の中でも武勇名高い英傑として知られ、源頼信・平維衡・平致頼とならぶ道長四天王と称されます。『保元物語』や『梅松論』など中世文学の世界でも坂上田村麻呂、藤原利仁、源頼光に彼を加えて伝説的な武人4人衆として扱われました。

なお、この頼光の弟にあたる頼親ないしは頼光四天王が保昌の郎党である清原致信(清少納言の兄)を殺したことからライバル関係にあったとも、先述した武人4人に数えられたように対等な関係だと見るなど、この2人の関係には諸説があります。しかし、室町期以降の酒吞童子伝説では頼光が総大将で保昌はわき役になっており、彼と保昌の関係は複雑なものとなっており、はっきりとはしていません。

また、保昌と和泉式部が結ばれたエピソードである花泥棒事件は祇園祭の山鉾・保昌山(ほうしょうやま)の題材になり、故事にちなんで宵山では縁結びのお守りが授与されますが、盗みに関する伝承でもあるためか盗難除けにも効果があるそうです。

光る君へ』の主人公・紫式部と同時代の歌人・和泉式部の夫という重要な立ち位置の藤原保昌ですが、現時点(2023年)ではキャスト未定となっています。名高き女流歌人の愛を射止めたヒーローをどのような方が演じるのか、今後に期待したいしつつ筆をおかせて頂きます。

(※1)数種類の香料を練り合わせて作ったお香、もしくはそれを炊くこと。香道のルーツ。


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参考にしたサイト

梅薫堂ホームページ 

祇園祭

(寄稿)太田

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