鎌倉時代が始まろうとしていた1171年に、東京都町田市に小山田城(館)を構えた小山田有重(小山田別当有重)の次男が小山田重義(小山田重忠、小山田次郎)で、小野路城主となり、小山田家の後継者と目されていました。
源頼朝の死後、執権・北条時政らの策略によって、1200年に梶原景時が粛正されると、1205年に畠山家が滅亡した際、同族であった小山田家にも類が及び、小山田有重の3男・小山田重成(稲毛重成・枡形城)と、4男・小山田重朝(榛谷重朝)、5男・小山田行重らが二俣川で殺害されてしまいます。
この時、一般的には小山田家は滅亡したとされていますが、次男・小山田重義はその殺害された中に、名が見られません。
すなわち、小山田家は滅亡したのではなく、本貫地である小山田の知行だけにと「没落」したものと小生は感じています。
山梨の郡内に入っていた小山田家は、戦国時代になると武田信玄の家臣として大活躍しましたが、要するに1205年、畠山重忠の乱で秩父氏系が静粛されたあとも、小野路城主の小山田重義(小山田重忠、小山田次郎)も、健在だったと推定できます。
その根拠がこれからご紹介する小山田の地に伝わる「小山田義重」なる武将です。
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小山田義重
小山田義重の名は、矢部八幡神社や、長池伝説と小山田神社にその名が出てきます。
しかし、これまでご紹介してきた「小山田重義」とは、義と重の字の順番が違う「小山田義重」と言う事になります。
単純に考えれば、別人であったり、親子?とも考えられますが、どうも、そうではなさそうです。
また、小野路城近くの白山権現祠跡は、小山田二郎重義が1220年頃に白山権現の社を再建したと伝わります。
これをまともに捕えると、1220年頃には小野路城主・小山田重義が健在と言う事になります。
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そして、同じころの1223年に、神明神社(小山田神明神社)を創建したのは、小山田義重(小山田次郎義重)とあります。
そうです、、義と重の字の順番が違う「小山田義重」の名が出てきます。同じ年代にです。
また、小山田義重(小山田次郎義重)が、嫡子・小山田小三郎に家督を譲った際、覚円坊と称して宮司になったと、矢部八幡神社に伝わります。
ともなると小山田重義と、小山田義重は、伝承などからの記録として字の順番が間違ってしまったのか、時の綴り順が異なるだけで、かなりの可能性で「同一人物」なのではと仮定できるのではないでしょうか?
町田市史など一般的に知られる長池伝説は、時代が南北朝時代なのですが、その長池伝説にはもうひとつの話として平安時代末期の話も存在してます。
そのもうひとつの内容としては、長池で入水自殺をしたと伝わるのは宇都宮友綱の娘であり、小山田義重の正室だったとされ、小山田神社に祭られたとも伝わります。
この宇都宮友綱の娘の伝承としては、小山田義重が妾である戸井田庄司の娘を寵愛しているのを悲しみ、宇都宮友綱の娘は長池に身を投げたとされます。
小山田義重が寵愛したと言う娘の父・戸井田庄司に関しては全く不明です。
恐らくは、武蔵国荏原郡戸井田荘の庄司(荘園の管理者)と推測もできるので、在地の家臣だったのかも知れません。
<注釈> 古い時代の荏原郡の範囲は定説がないが、東京・世田谷あたりの広大な範囲だったと考えられる。(戸井田の場所は不明だが戸井田姓は東京・埼玉・神奈川に多い)
一方で長池で入水した娘の父である宇都宮友綱(宇都宮弥三郎友綱)は、小山田重義の父・小山田有重が共に「大番役」に命じられて、京都で警備している仲とも?考えられます。
この宇都宮友綱の娘の場合、浄瑠璃の長池伝説とは年代が合わないのですが、長池の話はあくまで「浄瑠璃」(語り物)のため、そもそも話を面白くするため不正確なことも盛った可能性が高く、伝承が100%正しいと考えるのは間違えで「創作」と考えるのが妥当です。
さて、常山紀談と言う江戸中期に執筆された逸話集では、宇都宮友綱(宇都宮弥三郎友綱)の次男が、九州の城井谷の城井家の初代とあります。
すなわち、戦国時代に黒田長政に殺害された城井友房(宇都宮友房)は、その子孫と言う事ですので、おもしろいですね。
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となると、初代の城井氏から辿った場合、宇都宮兼綱とも称した宇都宮家の初代・藤原宗円の次男である中原宗房が初代の城井氏とされていますので、この宇都宮友綱(宇都宮弥三郎友綱)と言う武将は、宇都宮家の初代・藤原宗円だと充分に推定できます。
そうなってしまうと、宇都宮友綱(宇都宮弥三郎友綱)の娘=藤原宗円の娘が、小山田義重(小山田次郎義重)の妻と言う事です。
しかし、藤原宗円の嫡男である八田宗綱(宇都宮宗綱)が宇都宮家の2代目であり、小山田家の初代と考えられている、小山田有重の妻は、その宇都宮家2代目八田宗綱(宇都宮宗綱、中原宗綱)の娘ですので、関係図は下記のようになってしまいます。
小山田重義の妻は、梶原景時の娘とされているのですが、この娘は、宇都宮友綱の娘が他界したあとに、継室として入ったと推測すると、この懸案もすんなり解釈できると思います。
小山田有重が宇都宮友綱(藤原宗円)の子である八田宗綱の娘を迎えており、宇都宮友綱(藤原宗円)の娘を小山田義重が迎えていると言う事は、小山田義重が小山田有重の父?とも思えますが、小山田有重の父は秩父重弘ですので、それは考えにくく、単に八田宗綱が年を取ってからもうけた娘が、小山田義重に嫁いだと考えてよいでしょう。
と、言う事でまとめますと、下記の通りになります。
・小山田家は滅亡しておらず、跡継ぎとされて育った小山田重義(小山田重忠、小山田次郎、小山田二郎)は没落するも小路城主として本拠地にて健在だった。
・小山田義重(小山田次郎義重)なる人物は、没落後の年代に、小野路や小山田に神社を創建しているため、小山田重義と小山田義重は、字の順番こそ違うが、同一人物と考えられる。
・そして、小山田家は嫡子・小山田小三郎が受け継いだ。
以上、仮定の部分もありますが、皆様もご意見などございましたら、コメント欄にお寄せ願えますと幸いです。
上記の小山田1号遺跡は、出土した茶碗などの年代から、平安時代~室町時代の武士など有力者の館跡と考えられています。
場所は下記の地図ポイント地点です。
・北条氏からも知行?していた小山田氏のなぞに迫る
・小山田記~実録・小山田氏の存亡【小山田氏関連の考察とまとめ】
・小山田城の訪問記(東京都町田市の大泉寺)~自然豊かな多摩の伝承地
・小野路城(結道城)と鎌倉古道の訪問記と写真集
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