鹿島神宮と行方四頭とは~拝読者さまからの質問回答編

戦国武将列伝Ω

質問回答編とは?

当方関連サイトにお寄せ頂きましたご質問などに対して、相模原の歴史研究会所属会員が回答するものです。古い歴史にはわからないことが多いですので、もちろん歴史認識の違いや間違えなどがあるかも知れませんまで、あくまでもご参考になさって頂ければ幸いです。

ご質問内容 (一部略)

鹿島神宮が何時頃作られたのか? 鹿島神宮(茨城県)の運営、造営には、行方四頭が関わっていました。其の件に関して、何か分かることが、有りませんでしょうか?

回答内容

ご存知のことも多いかと存じますが、大まかな要点で記載致します。
ご存知の通り、鹿島神社や香取神社と言うのは、日本列島の原住民・蝦夷(えみし)が住む地を征服した際に、征服者がその地に建てた「征服の証」であり、東国(東北地方など)で多数建造されました
この征服者と言うのは古墳時代のヤマト王権(昔の教科書では大和朝廷)となります
その後、武士が出現すると、武神として鹿島神社や香取神社が日本各地に設営されました。
よって、全国各地にある鹿島神社は、比較的新しい趣旨の神社と、古くからあった神社と区分されます。


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茨城県鹿嶋市の鹿島神宮創建は、神宮の説によると、初代天皇とされる「神武天皇」の創建となりますが、そうなると日本書紀などの場合、紀元前660年頃と、とてつもない昔になります。
卑弥呼が158年頃~248年頃とされていますので、その卑弥呼の時代より800年も前に鹿島神宮があったと言うのは考えにくいです。
また、初代天皇の神武天皇じたい、紀元前660年とは考えられておらず、だいたい西暦280年頃の人物ではないかと考えられています。

常陸大掾氏(だいじょうし)の分家の1つが行方氏となりますが、常陸大掾氏の先祖は、平高望とされています。
平高望は、桓武天皇の血を引くもの(孫?)とされ、いわゆる皇族でしたが、889年に宇多天皇の命により臣籍降下し、平氏を名乗ることになります。
その時の赴任先が常陸国であり、地元豪族と関係も深めて、のちに多くの分家を出して、関東における平氏の基となりました。よって、行方氏は、桓武平氏大掾氏流となります。
同じ常陸大掾氏の分家の1つが、源頼朝から社領の寄進を受けると、鹿島神宮を管理していた中臣鹿島氏(中臣氏系鹿島氏)を圧倒して実質的に鹿島神宮を支配し、その分家は鹿島氏(平氏系鹿島氏)を名乗ります。
平氏系鹿島氏は1584年の33館虐殺と言う、佐竹義重の策で滅ぼされてからには、元の中臣鹿島氏の家臣らが遺児を立てて徳川家康にお家再興を願い出て、鹿島神宮三要職の1人として鹿島神宮神職に戻り、200石で明治維新まで続きました。
1584年の33館虐殺では常陸大掾氏系の烟田・玉造・行方・手賀・島崎(嶋崎)・武田・中居・相鹿・小高らの一族各氏も滅ぼされています。大掾氏は豊臣秀吉の小田原攻めの際に滅ぼされました。
 
中臣氏(なかとみうじ)は代々神事・祭祀の仕事を専門とした中央豪族で、ヤマト王権の命により、一族のうち常に誰かが鹿島神宮に派遣されていたと考えられます。
しかし、途中から鹿島に土着して、中臣鹿島氏となりました。よって、後の世に平高望が常陸に赴任する以前は、鹿島神宮を中臣鹿島氏が鹿島神宮の神職だったと言う事は間違えないようです。

現在の茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮拝殿や奥宮本殿は江戸初期に徳川家の寄進により立派な建物となりましたが、昔は伊勢神宮と同様20年に一度の造営(修理)を行っていましたので、鹿島神宮が所在する地である行方郡の行方氏がその20年に1度の造営に携わっていたのは間違えなく、ご指摘の通りです。

ではいつ頃から鹿島神宮があったのでしょうか?
649年に鹿島神郡と言う行政区分ができ、初めて使を遣わして神宮を造営した事が古文書に残されていますので、その時代にはもう確実に存在しています。平高望が平氏になったのが889年となりますので、それより200年以上前にはすでに鹿島神が存在しています。

もっと昔に目を向けますと、朝鮮から渡ってき日本の王になったとも言われている「崇神天皇」(第10代・日本書紀などでは紀元前み97年~30年)の時の話として、常陸風土記に記載されている内容によると大阪山に香島国の天津大御神が現れたため、中臣神聞勝命と言う人物に命じて、神宝類を香島(鹿島)に奉じ、その中臣神聞勝命が香島(鹿島)に土着したと記載されています。

年代が確かな天皇から逆算して行く事と、そして崇神天皇の古墳の立地・墳丘の形式も考慮すると、崇神天皇が実際に暮らしていた年代がある程度明確になります。
その年代は、邪馬台国の時代よりも少しあとの、350年頃に実在した大王と捉える見方が多いです。
崇神天皇の時代には「字」と言うものが日本に現れたり、それまでの伝統を打ち破るような革新的な出来事が多くなります。
例えば、ヤマト王権の古墳はそれまでヤマト(奈良盆地)に営まれていましたが、300年代後半より河内平野に築かれることが多くなります。この後、ヤマト王権は日本全国に勢力を伸ばし、実際400年代後半には九州南部から東北の仙台・会津まで前方後円墳の分布が急速に拡大し、近畿の古墳も巨大化していきました。権力・財政も潤った証拠です。
この事からも、ヤマト王権が東国遠征を300年代後半から400年代に掛けて、日本全土に勢力を拡大して行った事が伺え、一般的には350年頃日本を統一したとされています。またすぐその後、ヤマト王権は、朝鮮半島にも進出し、新羅や百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが朝鮮の古文書に残されています。

小生は朝鮮からやってきた崇神天皇が日本の政権を握ったと言う説を支持する理由の1つとして「祭政の分離」と言い、それまで政治の場(宮廷内)に祭っていた神様を、別の建物(祠)を作って祭るようになった事を重要視しております。
考えようによっては、旧王族が信仰していた神を疎遠にし、新しい自分のやり方を導入した事になり、伝統を重んじるそれまでの姿勢と大きく異なります。
また、この頃、天神地祇と言い、天の神様「天津神(あまつかみ)」と大地の神様「国津神(くにつかみ)」と神様を分別した考えらています。
日本に古来より住んでいた人々の信仰は土地の神様「国津神」であり、崇神天皇以降、ヤマト王族が信仰したのは「天津神」=「天神」と考えられています。

鹿島神はもともと常総地方の土着の神だったようで、その鹿島神をヤマト王権が利用した可能性が高いことが考えられる理由は下記の通りです。
ヤマト王権が蝦夷(えみし)が住む東国(関東から東北地方)を征服するのに、兵は東国は霊的な場所、えたいの知れない地域として怖がられていました。実際、京都の宮中内では江戸時代後期まで、真剣に関東や東北を「怖いところ」と嫌っています。
そのような情報は当然兵士や中央の豪族にも知られており、兵を派遣するのに士気が上がらない原因でした。
それを打破する為に、中臣氏が鹿島神を日本神話の中で最強の武力を象徴する武甕槌神として登場させ、武甕槌神を祭る鹿島神宮を拠点として、武甕槌神の加護で兵を進められるので心配要らないと、東国征服を促進させたと考えられます。
鹿島神宮の武甕槌神(タケミカヅチ)は、武力神様の他に、ミカヅチ=雷神でもあり、崇神天皇以降、ヤマト王族が信仰した天の神=「天津神」の分類にあたります。
神社には珍しく鹿島神社正殿は「北」を向いており、これは国全体の北方を護るためだと古くから言われてきています。
鹿島の立地にしても、海流に乗り北上することができるだけでなく、霞ヶ浦、利根川、鬼怒川の水運も利用できますので、遠征軍の総司令部を置くのにも適していたのでしょう。
現在分社は茨城県内に約500神社、関東近県で約900神社と推測されており、鹿島より扇状に東北へ向かって集中しています。
ヤマト王権の東国遠征で一番有名なのは第12代景行天皇の子とされる、日本武尊(ヤマトタケル)がいます。八溝山頂にある八溝嶺神社は日本武尊が創建したと伝えられていますが、一般的の説では、ヤマト王権が日本統一の際に、各地で活躍した英雄の話を具体化して、1人の日本武尊と言う架空の人物の物語にした(伝説になってしまった)と考えられています。

香取神社は日本書紀でタケミカヅチとともに降ったフツヌシを祭っていおり、 鹿島と言う漢字は昔、香島とも書かれており、香取神社も鹿島神宮と同じ境遇にあったと考えられます。
現在でも12年に1度午年には、鹿島神宮の祭神である武甕槌大神と香取神宮の祭神である経津主大神が水上で出会う鹿島神宮最大の祭典が執り行われています。

ヤマト王権時代、征服した地にも、自身の神を信仰させるのと、残る中央役人を加護するなどの理由から、鹿島神社や香取神社を分社として建造したと考えられます。この地はヤマト政権が征服したと言う証にもなる訳です。
ヤマト王権の遠征軍は朝鮮から持ち込んだ最新鋭の武器を所有していたと考えられますので、東北ではアテルイが抵抗しましたが、蝦夷(えみし)の人々の対抗もむなしかったのではと推測致します。

その後、ヤマト王権の中央より役人が地方各地に赴任する時代に入っていき、平高望もその地方に赴任したいち役人です。ただし、天皇と血筋と言うことで常陸国で勢力を拡大して行きました。

一方、鹿島神宮の神官になっていた中臣氏ですが、その先祖は、第1代天皇・神武天皇の兄・神八井耳命とされています。大化の改新で有名な飛鳥時代推古天皇の時の中臣鎌足(藤原鎌足)は常陸国の中臣鹿島氏の出と鎌倉時代の古文書に記載されており、中臣鎌足(藤原鎌足)常陸出身説もあります。

しかし、鎌倉幕府創設に際しては、関東平氏のほとんどが源頼朝に協力した為、実質鹿島神宮も平氏系鹿島氏が支配することになったと言うことだと推測いたします。

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