日本武尊とは 伝説となった古代日本最大のヒーロー

日本武尊

日本武尊とは

ヤマトタケル伝説の主人公としても有名な日本武尊(やまとたけるのみこと)は、12代景行天皇と播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)との間に、次男(古事記では三男説)として生まれました。
同母兄に大碓皇子(おおうすのみこ)、異母弟に成務天皇などがいます。

日本武尊の呼称は文献によって異なり、古事記では倭建命、古語拾遺では倭武尊などと表記されますが、本項では日本書紀の名前で統一します。
日本武尊の事績で名高いのが各地での英雄譚です。


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その序章で語られるのが九州の熊襲征伐で、古事記では大碓皇子が景行帝から寵姫を奪ったことが発端となります。
『兄を諭しなさい』と天皇は支持しますが、誤解した日本武尊は兄王を殺し、それを恐れた景行帝は熊襲征伐を命じました。
日本書紀では九州で再度反乱が起きたため、と簡潔に記されていますが、いずれにしても10代の少年だった日本武尊の初陣として熊襲征伐が記録されています。

熊襲征伐については

「従者を付けられないが、父方のおば(景行帝の姉妹)で伊勢神宮の祭祀を司る倭姫から女性の衣装を授かる。
敵将はクマソタケル兄弟(古事記)」

「倭姫の助けはないがお供の将軍を付けられて出征し、熊襲の長は一人(日本書紀)」

と言った違いはありますが、日本武尊は美少女に成り済まして敵の居城に侵入し、熊襲を討ち果たします。
その時、熊襲の長からヤマトタケルの名を奉られました。
日本武尊は帰路に西国各地の反乱(古事記ではイズモタケルを計略で、日本書紀では毒気を放つ神をそれぞれ殺す)を平定して大和に凱旋しますが、休む間もなく東国遠征に出ることとなります。


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この東征で有名な逸話が、古事記に記されている以下の逸話です。
日本武尊は東征の途中、倭姫がいる伊勢神宮に立ち寄ると景行帝の仕打ちを嘆き、泣いて訴えました。
『天皇の、すでに吾を死ねと思ふゆゑや…』
(我が父である天皇は、僕など死んでしまえと思っていらっしゃるのでしょう)
これを聞いた倭姫は甥の皇子を憐れみ、草薙剣と危急の時に開くべき袋を与えて東国へ送り出します。

日本書紀ではこうした悲劇的な文学性はなく、東征を怖がる大碓皇子(古事記と違って存命)に替わって、日本武尊が出陣することとなります。
喜んだ景行帝は彼を褒め称えて皇位を譲ろうと申し伝え、伊勢の倭姫も悲しむこと無く日本武尊に剣を与えて送り出すのです。

道中、日本武尊は賊の火攻めを草薙剣で退けて窮地を脱し、東国各地を平定していきますが、妃の一人である弟橘媛(おとたちばなひめ)が荒れ狂う海に人身御供として入水する悲劇に見舞われました。
古事記では東国を平定して尾張に入ったことが記されますが、日本書紀によると、東国平定後に尾張へ行く前に東北地方まで軍を進め、陸奥国の蛮族を平定したことが記述されています。


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東征を済ませた日本武尊は尾張の宮簀媛(みやずひめ)と結婚しますが、新婚生活を楽しむ間もなく伊吹山の悪神退治に出かけました。
日本武尊は守護してくれた草薙剣を宮簀媛に預け、悪神が変化した大蛇(古事記では牛ほどもある白猪)を使いの動物と間違えた上に神を侮る言動をしたため、その報いを受けて満身創痍となってしまうのです。

重傷を受け、病魔に身体を蝕まれた日本武尊は苦しみながら故郷の大和に帰ろうとしますが、ついに力尽きて能褒野(三重県亀山市)の地で生涯を終えました。
日本書紀によると景行天皇の43年、享年30歳と記録されています。
記紀共に死後、白い鳥となって天に昇って言ったと伝えられます。

ヤマトタケル

記紀の日本武尊は神話的な潤色に彩られた伝承が多く、記紀では皇子の一人に過ぎない日本武尊を『常陸国風土記』『阿波国風土記』では天皇として扱われるなど、謎の多い武将です。
祖先である神武天皇と同様に実在性を疑われたこともありましたが、遠征先や出生にまつわる伝承が各地に多く残っていることや、皇統譜に日本武尊の系統が記載されているなど、全く架空の存在だったとも言い切れません。

日本武尊にまつわる記述全てが史実かは不明ですが、日本武尊と両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)と言う女性との間に産まれたとされる皇子が14代仲哀天皇になり、その系譜は後の皇室につながっていきます。
こうした事からも、大和朝廷の勃興に貢献した複数の人物の伝承が複合され、数多の事績を誇るヤマトタケル伝説になった説が有力です。

古代の勇者・日本武尊は、戦前から戦中には神武天皇や神功皇后と言った日本神話の英雄と並んで国威発揚に用いられた時期がありました。
それでも日本武尊の伝説は広く好まれ、マンガや小説、戯曲などの題材として人口に膾炙しています。


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以下に紹介する歌は、日本武尊が故郷を偲んで詠んだ辞世のうち二首です。

「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」(大和は国内で最も素晴らしいところ、長く続く青い垣根のような山に囲まれた大和は美しい)

「命のまたけむ人は たたみこも 平群の山の 熊白檮が葉を 髻華に挿せ その子」(命を全うできる人は幾重にも連なった平群山の大きな樫の葉を、魔よけのかんざしとして挿すが良い)

これらの歌は半生を戦いに費やした勇猛な将と言うイメージとは真逆に、愛する故郷と人々への祝福が込められ、古代日本らしい素朴な情を今に伝えています。
死してもなお数多くの物語を世に送り出す日本武尊は、その伝承を語り継ぐ私たち日本人を、今際に詠んだ歌のように今も慈悲深く見守り続けているのかもしれません。

(寄稿)太田

足利義満 祖父尊氏の夢を果たした室町幕府の三代将軍
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