足利義満 祖父尊氏の夢を果たした室町幕府の三代将軍①

足利義満

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足利義満(あしかが-よしみつ)は北朝の延文3年(南朝の正平13年、1358年)8月22日に、室町幕府2代将軍・足利義詮と側室である紀良子の間に生まれました。
幼名を春王と言い、その誕生は祖父の足利尊氏が死去してから100日目のことでした。

義満は側室の子ですが、義詮の正室が生んだ長兄が夭折したこともあって嫡男として扱われ、幕府政所執事である伊勢氏の屋敷で養育されます。
しかし、その周辺環境は安泰とは言えず、康安元年(南朝の正平16年、1361年)に南朝の名将・楠木正儀(楠木正成の三男)や南朝へと帰順した細川清氏らに、室町幕府は京都を奪われます。


幼い義満も建仁寺、続いて播磨(兵庫県)の赤松則祐が支配する白幡城に逃れる幼少期を過ごしました。
翌年に室町幕府軍が南朝を撃退して京都を奪還すると、帰京する義満のは道中に滞在した摂津の景色が気に入ってしまい、
「ここの景色が良いから、京都に持って帰りたいなあ。担いで行きなさい」
とスケールの大きな“わがまま”を言った逸話を残しています。

帰京した義満は管領の斯波義将に養育され、貞治3年(南朝の正平19年、1364年)には7歳で乗馬し、翌年には矢開き(少年が初めて狩りで得物を得たお祝い)を行ったり、赤松則祐から祝いの品として武具を贈られるなど、武家の棟梁に相応しく教育されます。
貞治5年(正平21年、1366年)には後光厳天皇から義満の名と従五位下を賜りました。

翌貞治6年(正平22年、1367年)、父の義詮が重篤となり、11月25日に義満へ将軍の政務を譲り、初代尊氏の代から仕えている武将・細川頼之を管領に任命して義満の後見を託します。
義詮はこの忠臣に、『汝のために一子(義満)を与えん』と申し伝え、義満に対しては『汝のために一父を与えん』と言った上でその教えに背いてはならぬと遺言したのでした。

同年12月7日に義詮は死去し、義満は弱冠11歳で3代将軍となります。彼は、
『頼之殿を父上として仰ぎなさい』
と亡父に遺言された通り、頼之に全般の信頼を寄せました。
翌年の4月に義満が元服した時には烏帽子親を頼之が任せられ、儀式全てを行ったのが細川家の面々であった事からそれが伺えます。


細川氏を始めとした有力武将に擁立された義満は応安3年(正平25年、1370年)、南朝と強い関係性を持っていた延暦寺とその配下勢力を取り締まる権限を賜り、ほぼ近い時期に今川貞世らを南朝が割拠していた九州に派遣します。
それは、北朝ひいては幕府の強大化につながり、南朝勢力は弱体化の一途をたどったのです。
また、幕府は日野資朝ら兄弟を輩出した日野家と関係を深め、応安7年(文中3年、1374年)には義満が正室として日野業子を迎えたことで貴族社会とも強いつながりを得ました。

永和4年(天授4年、1378年)、義満は今まで三条坊門にあった邸宅を北小路室町に移動し、その邸宅は『花の御所』と呼ばれるようになりました。
室町幕府の呼称は、それに由来します。
他にも義満は将軍直属の常備軍『奉公衆』や実務官僚『奉行衆』を設けて軍備・行政を強化する一方で永和元年(1375年、文中4年)に『新後拾遺和歌集』の勅撰を後円融院から下命されるなど、文化事業も手がけました。

康暦元年(1379年、天授5年)、反細川頼之派の守護大名である斯波義将や土岐康頼らが花の御所を包囲して頼之の罷免を求めた『康暦の政変』が起きました。
義満は彼らの要求を呑んで人事を斯波氏の派閥に改め、頼之は領国である四国へと追放されます。
4年後、義満は従三后の宣下と武家最初の源氏長者への就任を果たし、祖父の尊氏を上回る権威を手にしました。

また、その間義満は細川と斯波の対立を利用して将軍の権威を強め、康応元年(元中6年、1389年)に起きた土岐康行の乱で土岐氏を討伐するなど権力の確立に成功していました。
同年、追放した頼之を許しています。

明徳3年(元中9年、1392年)、義満は忠臣頼之を失う不幸に見舞われますが、楠木氏が立て籠もる千早城の陥落で南朝が弱体化したのを機に大内義弘を仲介して交渉を行い、南朝が所持する三種の神器を北朝の後小松天皇が接収して南北朝合一が果たします(明徳の和約)。
応永元年(1394年)には従一位太政大臣に昇進するも嫡男の義持に将軍職を譲り、翌年には出家しました。武家(征夷大将軍)、従三后(公家)に次いで寺社をも支配しようとしたからと言われます。


こうして、義満は平清盛(太政大臣)、源頼朝と尊氏、義詮(いずれも征夷大将軍)を兼ね備えた地位を手にしたうえ、宗教界にも強い影響力をもつようになったのです。
その野心は尽きること無く、各地の勢力糾合と大陸への夢へと向かっていました。

(寄稿)太田

後醍醐天皇の負けず嫌いな執念と室町幕府や南北朝時代になった背景
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