誰かを教育するにはまず自分からだと思います。
それを行わないと教育を受ける側には示しがつかず、教育の意味がないですよね。
戦国時代でも人を教育するにはまず自分からを体現した人がいます。
その者の名は安藤直次(あんどう-なおつぐ)です。
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今回は直次の生涯と直次の教育法を紹介します。
生い立ち
直次の生まれ年には諸説あり、天文13年(1544)、天文23年(1554)、弘治元年(1555)など3つあり、どれが本来の生まれ年が定かではありません。
これには直次の身分が低かったことが要因となっています。
幼い頃から徳川家康に仕えていた直次は元亀元年(1570)の姉川の戦いを機に戦に参加し、天正3年(1575)に起こった長篠の戦いにも参加しています。
そして、天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いでは織田信長の乳母兄弟である池田恒興と鬼武蔵と呼ばれ恐れられた猛将の森長可を討ち取る活躍をしています。
その功績から家康から弓を貰い、武勇の面では申し分働きをしました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康に従軍し、慶長10年(1605)には2300石を与えられました。
直次はその後、5000石まで加増されますが、同世代は1万石を超えていました。
普通ならば不服を申し立てる所ですが、直次は何も言いませんでした。
共に老中として初期幕政を仕切った成瀬正成が家康に申し立てたことにより1万石に加増されました。
家康は直次のこの態度を大層気に入ったそうです。
硬骨さが売り
慶長15年(1610年)では家康の命令で御三家の一角を担う紀伊徳川家の祖となる徳川頼宜の家老となりました。
家康が大御所となった後も直次は側近としてつき従い、政治に参加しました。
安藤直次は家康に欠かせない存在としていますが、その理由としては直次が硬骨だったからだと思います。
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それを裏付けるように家康に紀伊徳川家が反旗を翻さないように誓紙を書かせようとしますが、直次はこのようなことが起きれば頼宜を止め、それができなければ頼宜と共に果てることを言ったそうです。
この意志の強さと忠誠心が家康からの信頼を獲得していきました。
直次は家康が行った最後の戦、大坂の陣にも参陣しましたが、不幸なことに大阪夏の陣で嫡子の安藤重能が討死にしてしまいます。
そんな状況の中で直次は軍の立て直しを優先し、重能の遺体は「犬に食わせるように」と命じ、放置させていました。
しかし、夏の陣が終わると直次は重能の死を深く悲しんだとされています。
教育係として
大阪の陣が終わり、太平の世となると徳川頼宜に従って紀伊国田辺藩の初代藩主となり田辺城に入りました。
直次は頼宜を立派な人間にするべく簡素な生活や厳しくする所は自分も厳しくするなど、見本となるよう努めました。
直次は家臣たちに自ら考えて行動するように教育し、「教育が上手い」と言われていました。
それが功を奏して、頼宜が乱暴なふるまいをした時に直次はすかさず頼宜を取り押さえました。
その際に頼宜の股に痣ができてしまうのですが、その痣を頼宜は戒めとして治すことなく生涯に渡って残しています。
また、頼宜が「直次がいなければ大名としていなかった」と自分で言うくらい信頼されていました。
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家康と頼宜と2世代に渡って徳川家に仕えた安藤直次は寛永12年(1635年)に81歳で天寿を迎えました。
(寄稿)拾丸
・徳川頼宣 覇気ある紀州徳川家の祖
・神官+武士=金刺盛澄 (諏訪盛澄)
・小牧・長久手の戦いと池田恒興~長久手古戦場
・森長可~武勇から「鬼武蔵」と称され槍術が得意だった武将
・成瀬正一と成瀬正成~意外性もあった徳川家の家臣とその功績
・紀伊・田辺城 (紀伊・湊城) 田辺藩の政庁が築かれた
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