赤井直正 明智光秀に死を覚悟させた丹波の赤鬼

赤井直正

赤井直正(あかい-なおまさ)は、丹波の赤鬼として恐れられた猛将です。
明智光秀織田信長の命令で丹波を攻めたのは天正年のことでした。
数々の戦を経験した光秀でさえも丹波攻めは難航したらしいです。
その理由は赤井直正の存在でした。

直正は丹波の赤鬼として敵から恐れられた人物だったので、光秀も苦戦するのは無理もないと感じてしまいます。

今回は光秀を苦しめた赤鬼、赤井直正に焦点を当てて紹介します。


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赤井姓ではなく荻野性を名乗っていた

直正は享禄2年(1529年)に赤井時家の次男として生まれます。
家督は兄の赤井家清が継いでいたこともあり、次男だった直正は外叔父、荻野秋清の養子になります。
そのことから直正は荻野直正と名乗ることとなりました。

しかし天文23年(1554年)、年初の挨拶のために直正は秋清がいる黒井城に赴きますが、秋清を暗殺します。
黒井城を乗っ取った直正は自身を「悪右衛門」と名乗るようになりました。

細川晴元を指示していた赤井家は弘治元年(1555)、反晴元勢力の芦田家と足立家と戦います(甲良の戦い)。
この戦いには家清、直正兄弟が主力として戦いますが、2人とも重傷を負ってしまいました。
家清に至ってはその傷がもとで弘治3年(1557)に亡くなってしまいます。

家清の家督を継いだ甥の忠家はまだ幼かったので、直正は後見として赤井家の実質的な指導者となりました。
そのため、一般的に萩野直正ではなく、赤井直正の名で知られています。


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直正主導の元、永禄8年(1565)には松永久秀の弟、松永長頼を和久郷の合戦で討ち取り、反晴元勢力を丹波国から一掃しています。

丹波の赤鬼として

永禄13年(1570)には赤井家は織田信長に降伏します。
丹波奥三郡の所領安堵を受けた矢先、足立家の治める山垣城を山名佑豊が攻め始めました。
赤井直正は山垣城を救うべく軍を起こし、佑豊と戦います。

見事撃退した直正でしたが、佑豊はあろうことか信長を頼り天正3年(1575年)に光秀率いる織田軍と戦うことになります(第一次黒井城の戦い)。

光秀は瞬く間に黒井城を包囲しました。
また、丹波の大名、波多野秀治をはじめとした多くの国人を味方にしていたので勝利を確信していました。
しかし翌年になると秀治が裏切り光秀を攻め、退却させることに成功します。

これは「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれています。
光秀の猛攻から丹波を守った直正は「丹波の赤鬼」の名で知られることになりました。
またこの戦いで光秀は死を覚悟したといわれています。

直正の力ありきの赤井家

天正5年(1577年)になると光秀は黒井城を攻めます(第二次黒井城の戦い)。
今回は黒井城めがけて進軍するのではなく、周囲の城を攻城してから黒井城を攻める戦法を取りました。

そんな危機的状況の中で直正は天正6年(1578)に首切疔(くびきりちょう:首の周囲にできる腫物)で病死してしまいます。


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赤井直正の死により第一次黒井城の戦いでは、味方についていた秀治や丹波国人衆は明智光秀側に周りました。
そのことも相まって直正の力で戦ってきた赤井家は黒井城陥落と共に没落の一途を辿ることになりました。

寄稿(拾丸)

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