明智光慶 謎が多いが存在が認められている明智光秀の息子

明智光慶

明智光慶(あけちみつよし)に焦点を当ててみたいと思います。
言わずと知れた明智光秀にはあまり知られていない息子がいました。
親ばかり注目がいく中で今回は嫡男とされているのが、明智光慶です。

きっと大河ドラマの「麒麟がくる」でも出てくると思いますので、予習と思って一度ご覧くださいませ。


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光慶の生い立ち

光秀の家族には謎が多い中で光慶は唯一存在の記録がある人物で光秀の嫡男に当たります。
生まれた年も定かではなく一説では永禄12年(1569)とされています。

母は妻木煕子で父はもちろん明智光秀です。

光慶が歴史の表舞台に立つのは天正6年(1578)の光秀が丹波国で亀山城を築城中のことです。
その後は天正9年(1581)、姉のガラシャの夫、細川忠興主催の茶会に光秀と共に参加したとされています。

また、天正10年(1582)の5月に光秀が山城国愛宕山五坊の一つである威徳院で詠んだ連歌(愛宕百韻)で光慶は歌の結びの句である結句を詠んだとされています。
しかし、初陣の記録はなく光慶自身の特に目立った行動はありませんでした。

ルイス・フロイスは光慶のことを「欧州貴族のように優美な人物」と評価し光慶が光秀より相当な教育を受けていることや所作がしっかりとしていたことが窺えます。
また、明智家に少なからず欧州の血が流れていることも窺えるので、容姿端麗だったのではないかと思います。

本能寺の変後の行動

天正10年(1582)の6月に光秀が織田信長を倒す本能寺の変が起こります。
光秀は実質的に天下を取ったことになりますが、忠興に送った手紙には天下を取るために信長を打ったわけではないこと、近畿を平定した後に忠興と光慶に政権を譲りたい旨が書かれていました。


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当の光慶には本能寺の変の際に亀山城にいた説と近江国坂本城にいた説の2つがあります。
まず亀山城にいた説では、本能寺の変のことを聞き父である光秀が人道に背いたことを嘆き、そのまま病死してしまいます。

次に坂本城にいた説では本能寺の変後の山崎の戦いで敗走した明智秀満と共に中川清秀高山右近の攻撃を受けて城を枕に自害しています。

どちらの説の最後に光慶は亡くなってしまうのですが、なぜ死亡説が2つあるのかというと光秀には光慶の他に2人の息子がいたからです。

2人の息子は自然丸と乙寿丸といい、2人も光慶と同時期に亡くなっていますが、誰がどの城で亡くなったのか確たる証拠がないので光慶の死についての説が2つになっていると考えられます。


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生存説が存在する!?

実は明智光慶には生存説があります。
京都にある妙心寺の僧である玄琳が光慶という説と唯一光秀の肖像画がある本徳寺を開いた僧の南国梵桂が光慶という説の2つがありますが、これといった信憑性はなく定かではありません。

寄稿(拾丸)

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