妻木煕子~明智光秀を愛し愛された糟糠の妻~

妻木煕子


妻木煕子(つまき-ひろこ)は明智光秀の正室で、明智煕子とも言います。
煕子の生年と出自には謎が多く、46歳で死去した説を採用すれば享禄3年(1530年)に『美濃国諸旧記』に名を記された現地の武士である妻木範熙、もしくは妻木広忠の長女として産まれたと言われています(なお、範熙と広忠には同一人物説あり)。

煕子の少女時代は不明ですが、天文14年(1545年)頃には15歳で明智光秀(当時20代後半だったと言う)と婚姻しました。
一説によると煕子は婚約後に疱瘡に感染して痘痕が残り、美貌が損なわれると言う悲劇に見舞われます。
憂慮した父の妻木は破談となるのを避けるべく、煕子の妹で外見がそっくりな芳子と言う娘を身代わりに出すのですが、それを見破っていた光秀は美醜を度外視して煕子を妻にと望み、かくして二人は結ばれたのです。


このエピソードは、後世に於いて創作された物語と言う説も存在しますが、身重の煕子を光秀が背負って敵から逃がしたと言う伝承と並び、彼女が光秀に深く愛された事を示す好例でもあります。
煕子もまた、自分を思ってくれる優しさ、外見に囚われない聡明さを持つ光秀を助けようと必死であったらしく、斎藤道三に加担していた夫が斎藤義龍に敗北して浪人になった時の事跡として、以下のような逸話も残されています。

浪人で無収入同然の身となった光秀でしたが、ある時連歌の会を主宰する順番が回ってきたにもかかわらず、接待費が無いのに悩んでいました。
すると煕子は美しい黒髪を切り落とし、それを売って光秀に見事な宴会を開かせたのです。
その計らいに感謝しつつ、申し訳無いと痛感した光秀は生涯を通して彼女への純愛を貫き、側室や妾を抱える事は無かったと言います。

なお、その歌会は朝倉家臣との会合でもあり、また光秀は朝倉義景の配下として10年仕えたとする説も存在するため、その説を採用するならば煕子は光秀が再起するきっかけをもたらした事になります。
この逸話も、光秀が朝倉家の家臣だったかに疑問を呈する声や、側室や庶子の存在をほのめかす資料などから否定される事がありますが、煕子と光秀は相思相愛と言ってもおかしくないくらいに仲睦まじい夫婦だった事に変わりはありませんでした。

天正4年(1576年)11月7日、そんなおしどり夫婦にも悲痛な別れが訪れます。
明智煕子は、明智光秀が重病で倒れた時から付きっきりで介抱していたのですが、その看病疲れが元で46歳の生涯を閉じたのでした。
享年は46歳(36歳、42歳説もあり)、戒名は福月真祐大姉と付けられました。
一説には天正10年(1582年)に光秀の居城であった坂本城が陥落した時、入城すること無く落ち武者狩りで落命した最愛の夫の後を追うが如く、城と運命を共にしたとも言われています。


なお、『明智軍記』によると光秀には7人(明智系図では養子や側室の子を含めて13人)の子供がいたとされますが、煕子の産んだ子としては名門の細川忠興に嫁いだ三女ガラシャ(明智たま、四女説もあり)、嫡男とされる長男の光慶などがおり、子供への扱いを見ても光秀の煕子に対する敬愛と信頼が伝わります。

後世、光秀が逆賊として扱われるようになっても煕子の逸話は好まれ、松尾芭蕉が「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せん」と一句残したほどに親しまれました。
なお、煕子が葬られた妻木氏の菩提寺である西教寺(滋賀県大津市)には明智光秀一族の墓も現存しており、今でも『戦国のおしどり夫婦』はこの地で安らかに、そして睦まじく眠り続けています。

(寄稿)太田

大田のシリーズを見てみる
明智倫 (明智倫子、お倫)~明智光秀の長女
明智光秀と本能寺の変はこちら
明智光秀を推理する~日本歴史上最大ミステリー
天下分け目の山崎の戦い 明智光秀は遠慮して負けたか?
明智煕子(妻木煕子)とは
妻木城 妻木頼忠は明智一族として戦国の世を生き残る
坂本城 明智と共に隆盛し滅びた琵琶湖の名城
明智光秀の妻子まとめ 妻と子供の一覧リスト

共通カウント

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!




関連記事



あなたの思いを下記にどうぞ

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。


気になる戦国女性

  1.  於菊(おきく)は真田昌幸の5女で、名胡桃城で生まれた。  真田信之・真田信繁らの妹に当たる。生年…
  2. 稲葉一鉄(いなば-いってつ)は、土岐頼芸の家臣・稲葉通則の6男として、1515年に美濃池田の本郷城に…
  3. 岩村城
    秋山虎繁(あきやま-とらしげ)は、秋山領主(山梨県南アルプス市秋山)である秋山信任(秋山新左衛門信任…
  4. 淀殿(よどどの)は1569年に近江・小谷城にて誕生した。 父は浅井長政で、母は織田信長の妹・お市の…
  5. 阿南姫(おなみひめ)は、米沢城主・伊達晴宗の長女として1541年に生まれた。兄に岩城親隆、弟に伊達輝…

人気の戦国武将

  1. 真田丸(さなだまる)とは、真田幸村が築いた大阪城の出城の名称である。 大坂冬の陣に参加して欲し…
  2. 源頼朝は、源氏の頭領である、源義朝の3男として、1147年4月8日に尾張の熱田神宮西側にあった神宮大…
  3. 5歳の時に疱瘡に掛かり、一命は取り留めるものの右目を失った梵天丸。 米沢にて虎哉和尚や片倉景綱に鍛…
  4. 長篠城を包囲した武田勝頼に対して、徳川家康・織田信長が38000の援軍を派遣すると、武田勝頼が120…
  5. 今川義元(いまがわ-よしもと)は、1519年、駿河・遠江守護の今川氏親の5男として生まれた。幼名は芳…

戦国グッズ通販

実際に鉄板も使用した本物志向「高級」甲冑型の携帯ストラップ
甲冑型ストラップ

戦国浪漫グッズ
戦国武将グッズ

自作甲冑キット新発売
甲冑自作キット
戦国浪漫「戦国グッズ」通販

メールでお知らせ

新規記事追加をメールで受信

ページ上部へ戻る