奄美大島の平家落人伝説を追って~神様アマンディの墓も

1185年3月24日、源範頼源義経源氏に壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で敗れた平家一門及びその郎党は、追捕から逃れるため日本各地に潜んだため「平家の落人伝説」が東北から沖縄まで各地にあります。
そんな平家の落人伝説として、今回は「奄美大島」における平家を追ってみましたが、結構、オモシロイ事もわかりましたので、ご覧頂けますと幸いです。
奄美大島(あまみおおしま)は鹿児島県ですが、沖縄本島の方が近い奄美群島の島となります。
そのため、文化や方言なども沖縄の色が濃かったようですが、壇ノ浦の戦いで敗れて、落ち延びてきた平家の落人らによって、日本本土の文化が伝えられ、更には幾つかの城砦が築かれたと言われています。


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まずは、平資盛です。

平資盛

平資盛(たいらのすけもり)は、平清盛の嫡男・平重盛の次男であり、母は藤原親盛の娘ですので、平家一門となります。
平家物語によると壇ノ浦の戦いの際には平資盛は24歳で、弟・平有盛と、従弟・平行盛とともに、壇ノ浦で身を投じて自害したとされています。

ただし、奄美大島にある伝承では、弟の平有盛、いとこの平行盛の3人で喜界島に3年間潜伏したとされます。
喜界島には「平家上陸の地」「七城跡」「平家森」と言った史跡もあります。
そして、喜界島から3人は奄美大島へと渡ったとされます。

そのため、喜界島には、平家が最初に築いたといわれる七城跡があり、追って来る源氏を警戒するための城跡となる平家森もあります。

他には、最初は平資盛が約300を引き連れて逃れてくると喜界島に入って、1202年になって平有盛と平行盛の二将が、会いにやってきたともされます。
そして、3人で奄美大島を攻略しようか?と言う話になったようで、約50日間掛けて、奄美を平定したと言います。
このようにして3人は、それぞれ別れて、奄美大島に住んだようで、大奄美史によると「この3将は全島を平定したあと、島内を三分してそれぞれの一を領した。」とあります。


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平資盛は島の西南部東間切・西間切、屋喜内間切を領有し、更に警戒したのか?、奄美大島の南側にある加計呂麻島(かけろまじま)を本拠とし、瀬戸内町諸鈍に平資盛を祀った大屯神社(おおちょん)があります。
また、諸鈍に築城したとされていますが、配下の者に、もうここまでは追っ手も来ないだろうから「諸公は鈍になれ」と言ったことから諸鈍(しょどん)と言う地名になったとか?

なお、このとき、島の人々に伝えたとされる諸鈍集落に残る踊り・村芝「諸鈍芝居」(しょどんしばや、諸鈍シバヤ)が、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
平資盛が村人を招いて酒宴を開き、芸を披露したのが、この踊りとも言われており、琉球文化と平安文化(大和文化)が融合した内容になっているそうです。

ただし、平資盛は諸鈍に落ち着いて間もなく他界したとあります。
大屯神社の境内には、江戸時代の1827年(文政11年)に建立された平資盛の墓碑があるそうです。
申し訳ありませんが、さすがに日程の都合で、加計呂麻島までは行けていないので、写真類はありません。

映画・寅さんの最終回「男はつらいよ・寅次郎紅の花」で撮影に使われたリリーの家があるのも、ここ諸鈍です。
私が死ぬまで機会があるのかわかりませんが、是非訪れてみたいとところですね。

平有盛

平有盛(たいらのありもり)は、平重盛の四男となります。
壇ノ浦で海中に身を投じた際には、21歳です。

奄美大島の伝承では、平有盛は名瀬浦上に築城したとあります。

有盛神社

その名瀬の浦上町には、有盛神社がありますが、まさにこの場所が「浦上城」(有盛城)であったと推定されていますと言うより、城があってもおかしくない地形です。

有盛神社

社殿がある広場は「サンテラ」と呼ばれているようですが、サンは島口のシャア(下)が更に訛ったものとの事です。

有盛神社

なお、山頂部には薩摩藩の大島代官・肥後翁助(ひごおうすけ)が建立した平有盛の墓がある模様です。

有盛神社

有盛神社の南には、城田(ぐすくだ)と言う地名が残っており、その裏山は「モリヒラ」と呼ばれており、城があったとも言われています。

浦上集落にて読み書きなどを教えた「きょら夫婦」と言う伝承がありますが、この夫婦は平有盛と鍋加那(奄美の女性)とされています。

奄美大島の北方となる、屋仁港から西の蒲生崎には、平有盛の家来・蒲生佐衛門が遠見番として入り、源氏の来襲を警戒したとされています。
屋仁崎には蒲生左衛門を祭る神社「蒲生神社」があり、蒲生公園としても整備されています。

なお、平有盛と平行盛は、源氏が奄美へ押し寄せると言う噂に恐れをなしたようで、自害したと伝わります。
有盛神社の近くには平有盛の墓もあるとの事ですが、事前調査不足と言う事もあり、場所がわかりませんでした。

平行盛

平行盛(たいらのゆきもり)は、平清盛の次男・平基盛の長男となります。
生年が不詳なため、奄美に逃れてきたさいの年齢もわかりません。

平行盛は、龍郷町の南となる戸口(とぐち)を領したようで、戸口には行盛神社があります。

行盛神社

また、境内には左馬頭平行盛の墓と伝わる石塔もあるそうですが、これも分からずじまいでした。
あとになって分かった事ですが、行盛神社の裏手にあるようです。

行盛神社

ただし、島外者である私は、ハブが怖いので、勇気がいるように感じます。

行盛神社

なお、平行盛が築いた戸口城跡は、別の場所との事です。

この平有盛の家臣は龍郷町今井崎に、見張り用の砦を築き、源氏が来襲するのを警戒したと言います。
警戒に当たったのは家来の今井権田大夫で、現在は今井権現が建っています。
ユタ(原始信仰な霊能力者)のお祭り「今井大権現祭」も毎年行われるそうです。
ちなみに、龍郷と言うと、西郷隆盛が幕末に奄美大島で生活した際に、建てた新居の地です。

平行盛は奄美の人々に農業(稲作)を教えたり、漁法や学問を教えたと伝わります。
特に、龍郷の近くには「平家漁法」と伝わる遺構が、海に残っています。

平家漁法跡

満潮・干潮の差を使って、魚を取る方法だったようで「平家漁法跡」と呼ばれています。

海上を監視していた蒲生佐衛門と今井権田大夫は、7日毎に様子を定期的に報告もしたとあります。
また、奄美大島の漁船・船舶には「白帆」を禁じて、源氏の旗印と見ま違えないようにしたと言います。
そしていつの頃からか、屋仁崎と今井崎は二人の遠見番の名にちなんで、蒲生崎、今井崎と呼ばれるようになりました。

一説によると平行盛には平信基(平時信)という子がいて、北条時政の養子となり、平時信と名乗って種子島に渡ると種子島氏の祖・種子島信基になったと伝わります。

さて、平資盛、平有盛、平行盛らは源氏来襲と悟り、自害したとご紹介しましたが、下記のような伝承もあるようです。

今井権太夫が、7日毎に遠見の報告をしていましたが、その報告を頼まれた平行盛の御曹司が、浦集落の娘と恋に落ちて、戸口にいる父・平行盛に伝えるのを怠ったとされます。
そのため、今井権太夫や息子から連絡がないため、平行盛は源氏が攻め寄せたものと覚悟を決めて、自刃したと言います。
この事をあとから聞いた今井権太夫も責任を感じて自決し、御曹司も同様に自害しました。
そして、この話を聞いて前途に悲観した浦上の平有盛も腹を切ったと言います。
このような伝承もありますが、諸鈍の平資盛は、このときすでに他界していたとされます。

平家落人の伝説は、このように細かい話まで語り継がれている事は、あまり無いと存じますが、なかなか具体的すぎて、本当のような話だったのかな?とも思えてきます。

以上、平資盛、平有盛、平行盛に関する奄美大島での平家落人伝承でした。

アマンディ

オマケとしては失礼なのですが、奄美創生の神が降り立った場所とされる、パワースポットが奄美大島にあります。

なんでも、女神「阿摩彌姑」(アマミコ)と、男神「志仁礼久」(シニレク)の2神が、奄美大島のアマンディ(天孫嶽か奄美嶽と考えられている)に、天降りしたとの事です。
そして、島伝い・浦伝いに南下して、奄美大島を掌握し、最終的には琉球を修理したと大奄美史に記載されています。

その後、このシニレクとアマミコの間には、三男二女がもうけられたとの事です。

その長男は「天孫子」と称して奄美の始となり、二男は「按司」ですので、すなわち諸侯の始となり、三男は「百姓」すなわち庶民の始となったとあります。
長女は「君々」の始となり、次女は「祝々」(のろ)の始となりました。


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なんとなく、皆様もご理解頂けると存じますが、ヤマト民族のシニレクとアマミコが、軍勢を率いて船で奄美大島にやってきて制圧すると、その子らが跡を継いで奄美大島の領主になったと言う事で、日本書紀にも似たような記述になっています。

上記でも触れました通り、アマンディー伝説の降臨地のもう一カ所は、宇検村の湯湾嶺ですが、ここでご紹介するのは笠利のアマンデー(天孫嶽)となります。

そのアマンディ(Amandhi)である奄美岳には「阿麻美姑天神最初天降地」とある石碑が建立されています。

アマンディ(Amandhi)

標高130mの高台の先端で、遠くには喜界島を望めます。
写真の左端に見えるのは奄美空港の滑走路です。

アマンディー

注目するべき事項としては、男性と考えられ志仁礼久(シニレク)よりも、アマンディこと阿摩彌姑(アマミコ)の方が、崇められていると言う事です。
すなわち、その昔に、日本の本土からやってきて奄美大島を征服した軍勢は、女性の方が偉かったと考えられます。

また、関連性はわかりませんが、沖縄にもアマミチューと言う女性神の伝承があります。

この笠利にあるアマンディーの墓は、大刈山(おおかりやま)の中腹にあり、奄美大島の聖地と言えます。
夕方になるとハブも行動開始するらしいので、早い時間にご訪問頂ければと存じます。

奄美大島のアマンディ

笠利・アマンディーの墓への行き方ですが、航空自衛隊奄美大島分屯基地が設置した防衛省の道路を麓から登って行きます。
途中下記のような「アマンディー入口」と言う石碑があるところを右折すると、道路の終点に5台ほどの駐車スペースがあります。

アマンディー入口

ここから山道を少し下った300mほど先が、アマンディです。

アマンディー

地図は下記の鹿児島編のGoogleマップをご参考になさって頂けますと幸いです。

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アマンディはどのような女性だったのか?、確かめるすべはありませんが、奄美大島では「天孫岳」(アマンディ)と名付けられた黒糖焼酎も製品化されており、伝説が受け継がれています。

オリジナルGoogleマップ(奄美大島の欄をご確認願います)
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コメント

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  1. 紅ノ幸村

    奄美大島の花天と言う土地に、家紋が同じと言うだけで、真田や豊臣秀吉の一族が脱げてきたと言う、訳の解らない説もあるようで・・・どこまで本当なのか?
    琵琶湖 沖島みたいに、確定的なら信頼度が高いのですが・・・・。

  2. 紅ノ幸村さま、コメントありがとうございます。ご指摘のとおりですね。もちろん、本当ではない可能性も高いでしょうし、でも、そんなところが面白いと感じる方もおられるようです。(^-^)