朝比奈泰勝とは
朝比奈泰勝(あさひな-やすかつ)は1547年(天文16年)に遠江で生まれた。
朝比奈弥太郎泰勝は今川家が滅亡した際の掛川城主・朝比奈泰朝と同じ朝比奈一族ですが、2世代前に分家となった朝比奈知明の系統で父は朝比奈泰知で、その3男?とも推測される。
遠江朝比奈氏の系統なようで、家系図だと朝比奈宗左衛門泰勝とも。
朝比奈弥太郎は、今川義元の子である今川氏真の側近として従っていたようだ。
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やがて、武田信玄の侵略を受けて、今川氏真が駿府から掛川城・朝比奈泰朝のもとに逃れた際にも付き添ったようだ。
その後の浜松城への逃亡にも従い、朝比奈泰勝は太守様を最後まで見捨てていない。
こうして、今川家が没落しても従っていた朝比奈泰勝だが、1575年、長篠の戦いの際、今川氏真の使者を務めて、織田信長と徳川家康の陣中を見舞った。
この時、朝比奈泰勝は、武田勝頼の片腕とも言われる内藤昌豊を槍で討ち取ると言う大功を挙げている。
そのため、徳川家康は、今川氏真に打診して、朝比奈弥太郎泰勝をもらい受けたとされる。
また、本能寺の変のあと、甲斐の若御子城にて、北条氏直と徳川家康が和睦した際には、北条家からは石巻隼人佐、河尻下野守が使者となったが、徳川家からは朝比奈弥太郎が使者を務めた。
真偽のほどは不明だが、小田原城からの帰り道に箱根にて、亡くなった少女の霊と地獄の鬼を見たとされ、相模、伊豆、駿河などで「朝比奈は鬼を見た。女は地獄に落ちた」と、評判にもなったと言う。
ただ、これは生きていた娘を見たのを、火葬していた際の娘と、朝比奈泰勝が勘違いしたためだとされている・・。
小田原攻め、長久手の戦いにも参戦した朝比奈泰勝は、このように謎めいた武将であるが、徳川家康の10男・徳川頼宜の家臣となり、旗本大番頭になったとも・・。
寛永10年(1633年)に死去。
墓所は、静岡市駿河区大谷の大正寺。
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