別所重棟(別所重宗)と別所吉治~別所家一族として

戦国武将列伝Ω

別所重棟(べっしょしげむね)1529年~1591年

名は別所重宗、別所長棟とも。

赤松政則の重臣で三木城主・別所就治の3男。
兄に別所安治、別所吉親がいる。

別所重棟の正室は福島正信の娘。子に別所吉治、別所宗治、別所重家(旗本、新井別所氏祖、家禄美濃5郡1000石)、別所信範、福島正之がいる。

兄・別所安治の後を継いだ別所長治を補佐して、播磨の大名である別所氏の勢力維持に尽力した。
織田信長足利義昭を奉じて上洛すると、兄・別所安治の命で京都に派遣され、足利義昭や織田信長と面会し誼を通じ、本圀寺合戦に参加して三好勢の岩成友通を破るなど戦功を上げ、足利義昭より感状を受けている。
 
兄・別所安治が39歳の若さで病没し、兄の子の別所長治が家督を継ぐと、東宮が開いた「蹴鞠の会」に別所長治と共に参加。


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織田信長の紀州攻めにも参加したが、播磨に残っていた実兄・別所吉親は織田信長の事を快く思っておらず、羽柴秀吉の中国遠征では、別所吉親が別所長治を説き伏せて織田信長に反抗して毛利氏に通じた。

その為、別所重棟は三木城の別所長治の元から出奔して浪人

別所長治は城兵の命と引き換えに自害。(三木城の戦い)
 
その後、豊臣秀吉によって但馬・八木城15000石を拝領して、八木城主となり戦国大名に列し、豊臣秀吉の家臣として九州征伐や小田原攻めにも参加した後、家督を譲って堺で隠居した。

1591年、別所重棟の死後は、家督を別所吉治が継ぎ、丹波園部15000石に移封されている。
※別所吉治は、三木城主・別所長治の子ともされる。

関ヶ原の戦いで、別所吉治は石田三成に協力して西軍に属し、丹後田辺城攻撃に参加したが、なぜか? 徳川家康は所領を安堵している。
※別所吉治の伯母が徳川秀忠の乳母であった可能性もある。

1615年、大坂の陣での戦功で丹波に5000石加増されて、合計20000石。
しかし、1628年、仮病で参勤せずに、鷹狩をしていた事が発覚して、改易となり廃絶している。

但馬・八木城 別所重宗が石垣の城に改修

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