名将は水を制す~武将に学ぶ内政と戦術

長良川

人間のみならず、命ある者全てにとって水は欠かせません。
しかし、時として水は私達人間の生活や命を、一瞬で奪い去っていくこともあるのです。

文明や技術が発展した時代に暮らす現代人から見れば、ここ数十年の間に極端な水害が増えたという印象を持つ人も多いのかもしれません。

しかし、日本では稲作が始まった弥生時代の頃から、人々は常に水と闘ってきました。
古事記に登場する、スサノオノミコトが倒したヤマタノオロチも、川の氾濫と治水を表していたのではないか?と言われているほどです。


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日本という国は、国土の約70%以上が山と丘陵地で成り立っており、河川の高低差も激しく長さも短い為、大雨が降ると河川の水が一気に流れていくのです。
その為、古来より川の氾濫や洪水が多く、人々はいつの時代も水に翻弄されてきました。

現代では天候の変化や土地の形状だけではなく、人間が水害を引き起こす原因を増やしているとも言えるでしょう。
例えば、町村合併や、埋め立て地の新興住宅街建設の為、祖先が危険性を知らしめようと付けた地名が変えられたことによって、本来住んではいけない場所に人が暮らすようになりました。

また、農業・林業従事者が減少したことで、山は荒れ、ゆっくり保水する木々や田んぼが少なくなってしまったことも原因として上げられるでしょう。
森の管理維持は、水をコントロールする為にとても大切なのです。

しかし、植林という概念を日本人が持ったのは、近代以降であり、大量の木材が必要とされていた時代、日本の山々はハゲ山でした。
その為、高低差が激しく距離の短い川という特徴も相まって、日本では洪水のみならず、渇水や干ばつという事態にも度々襲われていたのです。
このように、水は無くなっても、有り過ぎても人々に被害を与えることになります。

この記事では、領土を守る為に水を制し、領民達の生活を守る為の戦略として、水を利用した戦国武将を紹介していきます。

現代も甲府を守り続ける信玄堤

2019年(令和元年)10月12日(土)に上陸した台風19号は、猛烈な豪雨で71の河川を決壊、氾濫させ関東、甲信越、そして東北地方に甚大な被害を与えました。
被害は時間と共に増えましたが、その後追い打ちを掛けるように、台風21号と低気圧の影響で大雨を降らせ、関東地方や東北地方では冠水や川の氾濫が起きたのです。

そのような中で、今再び注目を集めている治水遺産がありました。
台風19号の大雨からも甲府盆地を守ったとネットで話題になり、新聞記事にもなったのが、今から約450年以上も前に作られた「信玄堤(しんげんづづみ)」です。

信玄堤とは、甲斐(かい:現在の山梨県)の虎と呼ばれた戦国大名武田信玄が築いた堤防のことですが、なんと明治期に1度破損しただけという優れもの。

武田信玄が治めていた領土は、南アルプスや八ヶ岳など山に囲まれた盆地です。
この甲府盆地には、日本三大急流とも呼ばれる一級河川「富士川」の上流部、釜無川(かまなしがわ)が流れていますが、右からは御勅使川(みだいがわ)、左からは塩川が合流する地点でもあるのです。

このように複数の川が入り込む為、水で削られた山肌や土砂などが大量に流れ込み、扇状地となってしまった甲府盆地は、田畑を作る平地も少ない上に、洪水の被害も多発する不毛な土地でした。


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武田信玄は21歳の時に、甲斐武田家の当主となりますが、翌年の1542年(天文11年)より、信玄堤の工事に着手し、約18~20年掛けて治水工事を完成させたのです。

信玄堤は、水の流れに逆らわずに多少のリスクを考慮した上で、その被害を分散して最小限に抑えるという治水方法となっており、様々な仕掛けがなされています。

長く繋がる堤防を築くのではなく、ハの字型に不連続に置く霞堤(かすみてい)を築き、堤防の切れ目から流れ出た水を岩に当て、植林した万力林(まんりきばやし)と呼ばれる場所なども利用して、溢れ出た水を戻すような方法を使っていました。

また、石を積み上げて作った「出し」や「将棋頭」と呼ばれる石堤を設置したり、木材を三角錐のように組み上げ、中に石を詰め込んだ「聖牛(せいぎゅう・ひじりうし)」を設置して、川の勢いを弱める方法で甲府盆地を守ったのです。

国家百年の計という言葉はありますが、完成してから450年以上の時を経て、今尚現役の信玄堤は、令和の台風19号からも住人達を守りました。

武田信玄は天下を取ることは出来ませんでしたが、少なくとも先の領民達の生活を考え、未来を見据えた治水工事で、川を制することが出来たと言えるでしょう。

水を制して天下人となった豊臣秀吉

下剋上の戦国時代を制し、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、水を制し、そして大いに利用した人物と言えるでしょう。

現在も大阪で利用される日本最古の「太閤下水」は、秀吉が整備を命じて作られた下水道です。
また、現在は使用されていませんが、宇治川に作られた「太閤堤」も、伏見城築城の際、水陸交通の拠点にするべく作られた堤防でした。

織田信長の元で働いていた豊臣秀吉は、土木工事の大切さを学んでいたのかもしれません。
彼は、知識や技術を持つ人物達を重用し、土木技術を高め、金を惜しまず、人々の競争心も煽りながら様々な仕事を成し遂げて行きます。

また水を多いに利用して、出世していくのです。
秀吉が台頭を表し始めるきっかけは、美濃攻めの際に要所となった長良川の西岸にある墨俣(すのまた)に、たった一夜で城を築いたという「墨俣城」築城でした。

彼は築城に必要な材木で筏を作り、大量の人夫を乗せて川の上流から流して運び、一夜で城を築いたと言われています。


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豊臣秀吉はその他に、敵の城を陥落させる為にも水を利用しました。
毛利との対決中、毛利の配下であった備中高松城の城主、清水宗治を相手に、秀吉は水攻めで城を落としたのです。

備中高松城は湿地帯にある城で、その利を生かして用意に敵が近付くことは出来ない場所でした。
しかし、秀吉はそこをあえて利用し、高さ8メートル、長さ約4キロメートルという巨大な堤防をわずか12日で作り上げ、足守川を堰き止めて城下に水が溜まるように工事を始めます。

時期的にも梅雨時であり、行き場を失った降雨によって川が増水し、大量の水が城下に流れ出して高松城は陸の孤島となりました。

ちなみに、秀吉の家臣であった石田三成は、この水攻めに憧れ、映画「のぼうの城」で舞台となった「忍城(おしじょう)」攻撃の際、秀吉の真似をして水攻めを行いましたが、堤防が途中で決壊し、自軍にも被害を出してしまった為に失敗したと言えるでしょう。

秀吉はこの水攻めによって、毛利との対決を一時中断することが出来ただけではなく、同時期に本能寺の変によって殺されてしまった織田信長の敵を討つべく、すぐさま京へと向かうことが出来た為、天下人となることが出来ました。

土木工事の概念を塗り替え、治水工事も指示した織田信長

かつて家庭の事情で進学できない若者にとっては、キツイ、汚い、危険がつきまとう、いわゆる3Kの職場は高額報酬で人気の高い職場でした。

しかし、バブル崩壊以降は、3K職場ですらも給料が激減した上に、大量のリストラや新入社員の採用すら絞られてしまいます。
それと同時に、進学率の上がった現代では、キツイ仕事を回避する若者達も増え、土木建築業の人材不足が深刻となっているのです。

実は、平安時代の半ば頃(9~11世紀)の日本でも、土木工事は避けられていました。
何故かと言えば、大陸から入って来た陰陽道や密教などの影響で、土をむやみに動かすことを嫌う犯土(つち・ぼんど)という思想が広まったことや、安全を祈願する為の「人柱」の風習も穢れとされ、朝廷や公家達に土木工事が忌嫌われてしまったからです。

当然、庶民にとっての土木工事も、無給や義務、懲罰としての労働役で駆り出されたり、人柱に選ばれる可能性を考えれば、恐怖の対象となってしまうのも不思議ではありません。
また、平安後期に入ると、寺院や僧侶達が力を持ち、人柱に対する供養と称した多額の金を請求するようになり、土木工事は利権とも化していきました。

このような利権と概念をぶち壊し、土木工事を解禁した上、イベント化して庶民を積極的に参加させインフラ整備を普及させたのが、戦国時代の風雲児である織田信長だったのです。


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織田信長はまず、人柱の代わりに石や木で作った仏を埋めることを開始しました。
信長の配下であった、佐々成政もこれに習い、自分の名前を書き入れた石を埋めています。

また、大きな石などを運ぶ際、信長はキレイな布で石を飾り立てたり、鳴り物を鳴らすことで祭り的な雰囲気を生み出しました。
織田信長は自ら巨大な岩の上に乗って音頭を取り、大勢の人々を自然と土木工事へ参加させることに成功したのです。

信長の住んでいた尾張は、木曾川などを始めとする河川が運ぶ土砂などが集まって出来た「沖積平野(ちゅうせきへいや)」で、湿地帯に囲まれた場所で暮らしていました。
その為、水の利便さや脅威も知っていたのでしょう。

彼が土木工事の概念を崩してくれたおかげで、戦国時代から治水事業を始めとする、インフラ整備という概念も根付き、知識を身に着けた武将や技術者が増えたことにより、江戸の礎にまでも繋がっていきます。

優れたリーダーは水を制すべし

国民あっての国政ですが、優れたリーダーとは、国民が豊かに暮らしていく為に衣食住を整える義務があり、インフラ整備に力を入れていく責任があるのです。

ここ数十年、無知な国民に公共事業を悪と植え付け、「コンクリートから人へ」と声高らかに叫んだ前政権や、マスコミなどの扇動により、公共事業や技術開発などの予算を削られてしまいました。


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その結果、土木建築従事者や技術者達が減り、インフラ整備の大幅な遅れが出ています。
当然、災害復興も中々進んでいません。

目先の金や利権を優先し、人や技術を育てず、国民を外敵からも守ることが出来ない政治家や官僚、そして大企業などは、今こそ戦国時代の武将達に国の作り方を学ぶべきなのです。

(寄稿)大山夏輝

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