抱柊の家紋と下野白旗城主・大関家


スポンサーリンク
スポンサーリンク

我が家にも一応家紋がありまして、丸に抱き柊(丸に抱柊)(だきひいらぎ)となっています。

我が家に伝わる家紋としては、なんでこの家紋となったのか?、何代前のご先祖様が選んだのかなど不明です。
まぁ、江戸時代に入ると庶民も家紋を好んだそうですので、その時にでも採用したのかな?と感じておりますが、一応、抱柊を使っている武家を調べてみました。

すると、意外にも地理的に共通する部分などもあり、予想外のちょっとした収穫となりました。

 スポンサーリンク


まず、抱き柊を使用した武家は大関氏となります。

この大関氏は武蔵七党の丹党が出自で、武蔵国児玉郡大関村(埼玉県本庄市)を領したことから大関家となったようです。
出自に関しては他にも説があり、那須氏第4代当主・那須頼資(なす-よりすけ)の娘が、常陸の小栗頼重(桓武平氏大掾流小栗氏)に嫁ぎます。

この時、那須氏の家臣・角田氏の娘が、侍女となって常陸に赴いたのですが、その侍女は小栗頼重の一族である小栗七郎の妻となって、小栗与一(小栗高清)を生んでいます。
小栗七郎は、常陸国小栗御厨庄大関郷を与えられると大関氏を称したとあり、小栗与一(小栗高清)も大関氏を名乗ったようです。
その大関与一(大関高清)は、祖父である那須の角田氏に大変可愛がれて、上那須に赴き、那須七騎の大関氏となったとされます。

下野への移住は、大関家清が足利尊氏から那須郡の黒羽を与えられたからともされ、大関氏は代々那須家に仕えて活躍した那須七騎の一つと言われるのです。
と言う事もあるのか?、黒羽は伝説の武将・那須与一の伝承地ともなっているようです。

ここで我が家の家紋の話と照らし合わせるような事をして申し訳ないのですが、私は同じ常陸出身です。
しかし、この常陸の出と言うのは単なる偶然なように思えます。
と言うのは、ご先祖様が江戸時代に代々暮らした地は、現在の福島県須賀川市から南にある鏡石町なので、奥羽街道(国道4号)で那須と鏡石は約30kmと、昔に歩いたとしても1日で行ける距離であると言う事です。
何百キロも離れていれば、関連性は薄まりますが、この地理的な事で、抱き柊の家紋の大関氏との関連性を少なからず感じます。

南北朝時代の1351年に起こった足利尊氏と足利直義の戦いである薩埵峠の戦いで、那須氏は小山氏政・宇都宮氏綱・佐竹義篤らと足利尊氏に味方したので、この時、大関家清と言う武将が那須資藤に従って出陣しています。
これが文献上に見られる大関氏の初見です。

この功績により大関家清は、足利尊氏から那須郡内の松野・大桶の二邑を与えられますが、1355、那須資藤に従った東寺の戦いにて討死しました。
子の大関増清は黒羽の領地拡大に務め、白旗城を築くと、戦国時代まで大関家の本拠地となりとした。

1414年、那須資之と弟・沢村資重(烏山城主・那須資重)が那須家の家督を争った際に、大関増信と言う重臣は、那須資之に従って奮戦しているが、那須家は上那須氏と下那須氏に分裂しました。

1416年、上杉禅秀の乱が勃発すると、大関増信も那須資之に従って鎌倉へ出陣しています。
このように大関家は上那須氏の有力家臣となり、大関増信の子・大関忠増は、白河結城家の一族である小峰氏から妻を迎えました。

戦国時代の当主である大関宗増は、なかなかの野心家であり、那須家の内紛に乗じて独立を図ります。
しかし、1542年、同じ那須七党の大田原資清に嫡男・大関増次が殺害されて、大田原資清の子(大関高増)を養子に迎えざるを得なくなりました。
事実上、大田原氏が大関氏を乗っ取り、平姓大関氏は断絶となります。

我が家の家紋のご先祖様が、もし、没落して農民になったと仮定すると、この時にでも、鏡石に逃亡して土着したのかな?なんて、勝手に想像してみましたが、裏付ける証拠などは全くありません。

なお、黒羽城を築いた大関高増の時代には4600石となり、大田原綱清と協力し佐竹義重をバックに、主家・那須資胤をしのぐ勢力となり、豊臣秀吉小田原攻めでは那須氏を見限って、いち早く小田原に参陣し、主家が改易されるのをよそに、大関家は13000石の所領を与えられ、黒羽藩として明治まで続きました。

このように、江戸時代に大名家で抱き柊の家紋を使用しているのは、やはり大関家となります。

しかし、幕臣でも市橋氏、清和源氏義光流の山本氏、藤原利仁流の林氏、その支流の小出氏、早川氏、日下部氏流の日下部氏など67家が柊紋を使用しているそうでして、各大名の家臣も使っていることを推測しますと、相当な数になるのかなと考えます。

少なくとも、我が家の姓名の武将は、戦国大名の二階堂家臣に見受けられますが、その二階堂家臣であった同姓武将の家紋はもちろん不明です。
分かっている事と言えば、我が家の家系図でのご先祖様は江戸時代には農民?(商人?)だったようで、丸に抱柊が家紋だと言う事になりますが、なんで家紋が抱き柊なのかは分かりません。
金太郎と言う名のご先祖様もいるくらいですので、農民だと思うのですが、菩提寺は武家にも多い真言宗です。
しかし、江戸時代に入り、単に、ご近所で流行っていたのを「おまえも使えば?」と言われて、この家紋を使用するようになっただけなのかも知れませんしね。

最後までご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!

スポンサーリンク


関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. 戦国時代には関東にも「足利氏姫」と言う女城主がいたと言うのは、あまり知られていないだろう。157…
  2. 慶誾尼(けいぎんに)は、慶ぎん尼とも書きますが、1509年に生まれた村中龍造寺家の当主・龍造寺胤和(…
  3. 立花誾千代とは立花誾千代(たちばな-ぎんちよ)は戸次鑑連(立花道雪)の一人娘として筑後(久留…

人気の戦国武将

  1. 稲葉一鉄(いなば-いってつ)は、土岐頼芸の家臣・稲葉通則の6男として、1515年に美濃池田の本郷城に…
  2.  戦国時代最大とも言われる山岳戦となった三増峠の戦い。 武田信玄が勝利したとも、北条氏照が勝利し…
  3. ▼徳川家康は天文11年(1542年)に、三河国(現在の愛知県東部)岡崎城で小大名・松平広忠の嫡男とし…
 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります

戦国グッズ通販

実際に鉄板も使用した本物志向「高級」甲冑型の携帯ストラップ
甲冑型ストラップ

甲冑型ストラップ

戦国武将「Tシャツ」や「スウェット」その他もあり。
戦国武将シャツ

戦国浪漫「戦国グッズ」通販

メールでお知らせ

新規記事追加をメールで受信可能。

ページ上部へ戻る