本庄繁長とは
本庄繁長(ほんじょう-しげなが)は、本庄房長(本庄大和守房長)の子として、1539年12月4日(旧暦)に生まれました。
母の名は不明ですが、下記のような伝承があります。
下渡島城の支配を巡って対立した、父・本庄房長の弟である小川長資(おがわ-ながすけ)は、大宝寺晴時と挙兵し、色部勝長・鮎川清長と一緒に、越後・本庄城(越後・村上城)を攻めます。
この時、父・本庄房長の正室は妊娠していましたが、城内にて全身に傷を負い、道に倒れていたのを鮎川氏の家臣に発見されました。
そして、近くの寺に担ぎ込まれて、介抱を受けどると、どうにか蘇生し、それから7日後に無事男子を産んだと言います。
激動のために早産だったようですが、その生まれた男子こそが、勇将として名を馳せる本庄繁長(本荘繁長)と言うことになります。
なお、遠征先にて、居城が奪われたと聞いた、父・本庄房長は、村上城へ引き返しますが、その途中で倒れ、急死したとされます。
亡くなったのが、1539年11月28日とされ、本庄繁長(千代猪丸)が生まれたのは12月4日と言うことになります。
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このようにして、越後・本庄家を継ぐことになった本庄繁長ですが、当然、幼子ですので、叔父・小川長資を後見人にすることで家を維持した模様です。
小川長資は、長尾景虎を支援し、当主である本庄繁長を軽んじたようですが、幼少より気性剛強で、馬術に優れた勇猛と評されていたのが本庄繁長です。
天文20年(1551年)、当主・本庄繁長の名で主催した、父・本庄房長の13回忌を耕雲寺にて催すと、参列した小川長資を捕縛して、本庄繁長は切腹を命じました。
本庄繁長13歳のときです。
更に、鮎川清長を討伐しようとしたようですが、色部氏の調停によって和解しています。
こうして、一族の争いを鎮めた本庄繁長は、武名を馳せる活躍を始めます。
長尾景虎(上杉謙信)も長尾氏の家督を継いで、実権を確立した時期と重なります。
本庄繁長の正室は、栖吉城主・上杉景信の娘、継室は須田満親の娘、側室は大川忠秀の娘です。
1558年、長尾景虎からの要請を受けると、本庄繁長(19歳)は揚北衆(あがきたしゅう)を率いて参じており、上杉家の家中に組み込まれて行きました。
武田信玄との第四次川中島の戦いでは、本田右近允・松本忠繁・岡田但馬のほか、揚北衆の色部勝長・安田長秀・中条藤資・垂水源二郎(荒川長実)の4名が、上杉謙信から血染めの感状を賜っています。
血染めの感状と言うのは、血で染まっていたり、血で書かれたものではなく、一族郎党の死傷者が流した「血」の代償として賜ったものになります。
また、本庄繁長は上杉家において、中条藤資に継ぐ、第2位の序列になっていたようです。
そして、1568年、上杉輝虎(上杉謙信)の命を受けて、長尾藤景・長尾景治の兄弟を祝宴の名目で誘い出し謀殺しています。
更に、本庄実乃によって長尾興里(おきさと)が守る高城城も攻略しました。
しかし、本庄繁長には恩賞がなかったようで、甲斐・武田信玄の要請に応じて上杉家からの独立を図り、尾浦城主の大宝寺義増と共に挙兵しました。
本庄繁長は近隣の平林城主・色部勝長、黒川城主・黒川実氏、鳥坂城主・中条藤資らを誘いましたが、中条藤資が上杉家に通報し、黒川氏・色部氏には断られました。
上杉謙信は鎮圧に赴くも、本庄繁長の勇猛さに苦戦し対陣は長期化します。
頼りの武田信玄も越後へ兵を進めることができず、本庄繁長(30歳)は蘆名盛氏の仲介を受けて降伏し、嫡男・千代丸(本庄顕長)を人質に出して出家し、一時蟄居しました。
しかし、すぐに上杉家に帰参を果たしています。(本庄繁長の乱)。
以後は、上杉謙信に臣従していますが、織田信長も本庄繁長に対して、再び謀反を起こすように使者を送っていたともされます。
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天正6年(1578年)、上杉謙信の急死により発生した「御館の乱」になると、本庄繁長は上杉景勝に味方して、上杉景虎(北条三郎)勢の鮎川氏と戦いました。
また、嫡男・本庄顕長を大宝寺義氏(大宝寺義増の子)と共に、敵である上杉景虎(北条三郎)に味方させて、どちらが勝利してもお家の存続を優先させた模様です。
ただし、上杉景虎(北条三郎)が、春日山城から御館に脱出した際に、本庄顕長と大宝寺義氏は連れ去られたとする説もありますので、記載しておきます。
結果的に、上杉景勝の勝利に終わると、御館に在城していた本庄顕長は、廃嫡することを条件に助命されています。
本庄顕長(ほんじょう-あきなが)は、のちに別家を起こして2298石となりますが、1597年、伏見城舟入普請の際に、直江兼続からお咎めを受けて、須田満胤・柿崎憲家らと共に改易され、上杉家から追放されています。(没年不明)
1581年、新発田重家が上杉景勝に謀反を起こすと、本庄繁長は色部長実と鎮圧しました。
上杉景勝は本庄繁長に対して、上杉家の「竹に飛雀」の家紋を譲り、また古志長尾家の座敷を与えており、上杉景勝が上洛する際には、色部長実と共に春日山城の留守を任されました。
本庄繁長は、1583年、山形城主・最上義光によって大宝寺義氏が謀殺されたあとも、大宝寺氏(武藤家)を支援し続け、更に連携を強めるため、本庄繁長の次男・千勝丸を養子に送りました。(後の大宝寺義勝、武藤義勝とも)
しかし、本庄繁長が新発田城攻めをしていると、最上家を頼りたい国人が庄内各地で反乱を起こし、更に最上義光は庄内へ侵攻しました。
最上勢は約1万人に対し、本庄勢は5千数百人です。
1587年11月、尾浦城が陥落して、大宝寺義興が自刃。
養子となっていた大宝寺義勝は、落ち延びて戻りました。
1588年8月、最上義光が伊達政宗との戦にて動けない隙に、本庄繁長・大宝寺義勝の父子は、十五里ヶ原の戦いにて、最上勢に勝利しましたが、追撃したところ奇襲を受けて撤退しています。
この時の戦は激しかったようで、敵将の東禅寺勝正が本庄繁長に斬りかかり、兜にその刃が深く食い込んだとされています。
この刀は本庄繁長が持ち帰ったようで「本庄正宗」として知られています。
庄内地方に復帰した大宝寺義勝は、天正17年(1589年)5月に、豊臣秀吉に謁見し、大宝寺家は上杉景勝の与力大名として認められました。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命にて上杉景勝が由利郡・仙北郡の太閤検地を行います。
しかし、新しい検地は厳しい内容であったため、その直後に奥羽で一揆が発生しました。
一揆は鎮圧しましたが、本庄繁長・大宝寺義勝の父子は、庄内・藤島一揆を扇動した嫌疑を掛けられて改易(所領没収)となり、大和国に流罪となっています。
このとき、生活に困窮し、あの「本庄正宗」を、豊臣秀次または徳川家康に売却したとも言われています。
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その後、文禄の役の際、肥前・名護屋城に参陣したことで赦免され、1万石にて上杉家に帰参しました。
慶長3年(1598年)に上杉景勝が会津に転封となると、本庄繁長(59歳)は陸奥・守山城を任されています。
1600年、関ヶ原の戦いが迫ると、陸奥・福島城の守備を担当し、梁川城の須田長義と共に伊達政宗の侵攻に備えました。
関ヶ原の戦いが徳川家康の勝利となり、最上義光を攻めていた直江兼続が敗走すると、片倉景綱・茂庭綱元・屋代景頼らが率いる伊達勢は、甘粕景継の守る白石城を攻略し、更に福島城を攻めています。
このとき、大宝寺義勝に迎撃させましたが、宮代・瀬上間の野戦で敗れ、福島城の防備を固めます。
伊達勢は福島城を包囲し、砂金実常の部隊が城門まで攻撃しましたが、宮代からた岩井信能などが出撃したと聞くと、本庄繁長は城外に撃って出た為、伊達勢は挟撃されて陣を返し、北目城へ撤退しました。(松川の戦い)
伊達政宗の本陣に迫り、幔幕や小荷駄を奪い取ると言う勝利を挙げたと伝わります。
徳川家への抗戦を訴える直江兼続に対して、本庄繁長は講和を唱えると、上杉景勝は上杉二十五将に数えられる猛将・本庄繁長を上洛させて、終戦工作を行います。
上杉景勝と直江兼続が伏見城で、徳川家康に詫びるのは翌年のことです。
その結果、上杉家は存続を許され、会津120万石から米沢30万石への減封だけで許されましたが、伊達との戦いに勝利した本荘繁長でも3300石に減らされ米沢に移住しました。
慶長18年(西暦では翌1614年)12月20日死去。享年74。
墓所は福島県福島市の長楽寺です。
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上杉景勝は、武勇をもって大いに武功をあげた本庄繁長の功績を称え「武人八幡」の称号を贈っています。
なお、本庄家の家督は、先に大宝寺の養子になっていた次男・大宝寺義勝が本庄家に復帰し、本庄充長と改名することで相続しています。
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