鎌原幸定(かんばらゆきさだ)は、真田家の祖・真田頼昌の子で、真田幸隆の弟。
海野棟綱の3男とする説もある。官途は大和守。
その後、上野吾妻郡の海野氏の一族である三原城主・鎌原幸政(鎌原修理亮幸政)の養子となった。
武田信玄が信濃に進出すると、子の鎌原幸重(鎌原宮内少輔)と共に、早くから武田信玄に臣従したようで、真田幸隆の吾妻郡進出にも協力した。
その後、真田幸隆の軍に加わり、岩櫃城攻めなどに参加し、岩櫃城攻略の際、岩櫃城主・斎藤憲広の弟を内応することに成功している。
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鎌原城主・鎌原幸重の子・鎌原重澄(鎌原筑前守)は、真田信綱に従い(武田勝頼の家臣として仕えていたとも?)、1575年、長篠の戦いで討死。
その鎌原重澄の子・鎌原重春が、真田昌幸の娘(名前不詳、真田信尹の娘で昌幸の養女とも?)を正室に迎えている。
1582年3月、織田信忠による武田征伐で武田勝頼が滅亡したあとは、真田昌幸に従い、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにも従軍。
しかし、大道寺政繁が守備する上野松井田城攻めで討死したため、家督は子の鎌原重宗が継ぎ、関ヶ原の合戦では真田信幸(真田信之)に従って東軍に付き、大阪の陣にも従軍。
子孫は歴代、真田一族衆として真田家重臣に名を連ねている。
なお、鎌原重春の夫人(真田昌幸の娘)は、1619年8月1日に死去している。
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