江馬時盛・江馬輝盛【奥飛騨の国人】神岡城主

飛騨の神岡は、越中東街道と安房峠を越えて信濃へと抜ける街道が交わる交通の要衝です。
神岡城の築城時期は不明ですが、1561年に奥飛騨を支配していた高原諏訪城主・江馬時盛(えま-ときもり)の所領でした。
江馬時盛は本願寺顕如とも友好関係を深めましたが、信濃に進出した武田信玄に木曾谷の木曾氏、東濃岩村の遠山氏らが臣従。
そのため、江馬時盛も武田家に臣従したことから、上杉政虎(上杉謙信)の庇護を受けた三木自綱を一時破っています。


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1563年、上杉勢が越中から飛騨に侵攻した際、武田信玄は1564年に飯富昌景(山県昌景)を援軍として派遣し、上杉・三木勢と対峙しています。
また、江馬時盛は人質として、僧籍であった三男を甲府に差し出すと、武田信玄は江馬信盛(江馬右馬允信盛)と名乗らせて旗本に置いています。

武田信玄も、岩櫃城海津城長篠城野田城、小山城(駿河)と広範囲まで勢力を広げましたが、恐らくココ神岡城は、甲府から最も遠い武田勢の遠征地です。
この頃、神岡城は、武田勢による飛騨・越中の侵略拠点として、相当数の兵を入れる事ができるよう、江馬氏によって築城されたと考えられているようです。
本丸の西側は河岸段丘の急峻な崖になっており防御できますが、東側は平坦地であるため、幅15m程度の外堀が巡らされたようです。

1572年、武田信玄が駒場で命を落とすと、武田勝頼は飛騨を見捨てます。
神岡城は江馬氏の重臣・河上中務尉が城主となり、姉小路氏と覇権を争いました。

しかし、1578年7月16日、江馬時盛の嫡男・江馬輝盛(えま-てるもり)が、父・江馬時盛を殺害し、上杉景勝と手を結んだと考えられます。
江馬輝盛は父の方針に反対して仲が悪く、元々、上杉寄りであったことから、家督も弟・江馬信盛や、分家である麻生野直盛の子・麻生野慶盛に奪われそうだったと言う背景もあるようです。
江馬輝盛はは父を暗殺しただけでなく、武勇名高い弟・江馬信盛を追放し、分家・麻生野慶盛を攻め滅ぼし、家中を掌握しました。


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1582年、武田滅亡後は、江馬輝盛と姉小路頼綱も織田家に臣従しました。
しかし、明智光秀本能寺の変によって織田信長が横死するとが、江馬輝盛は3000を率いて姉小路頼綱を攻撃し、小島城下に迫って八日町の戦いとなります。
この時、江馬輝盛は兵力的に有利でしたが銃撃を受けて討死し、江馬勢は総崩れとなりました。
そのため、高原諏訪城と神岡城は小島時光によって落城しました。
13人もの家臣が後を追って殉死したと言われており、大坂峠を地元では「十三墓峠」と呼び、「十三士の碑」が建てられています。
三木勢(姉小路勢)は織田家を通じて「鉄砲」と言う新兵器を多数擁し、江馬家は旧戦法で戦った結果とも言えます。

その後、豊臣秀吉の命で金森長近が飛騨一国を治め、神岡城には山田小十郎が入りました。

江馬輝盛の子・江馬時政は、金森長近を頼り、羽柴秀吉と対立した富山城主・佐々成政の攻撃軍に加わるなどし、お家復興を目指しましたが、戦後の論功行賞で不満を抱き、金森勢と戦った結果、敗れて江馬家は滅亡したとされます。

徳川家康の治政となると、1615年の「一国一城令」にて、神岡城は破却されました。


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現在は観光用の復興天守が有料見学でき、二層三階の天守閣内部には鎧や鉄砲も展示されています。

行き方・アクセス

神岡城への行き方ですが、有料駐車場と無料駐車場があるようです。
しかし、私が訪問した際には、良くわからず、下記の地図のポイント地点付近に止めさせて頂きました。
もしかしたら、現在は駐車禁止になっているかも知れませんので、ご確認のうえ、安全に留意のうえ止めて下さい。

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