
おそらく多くの日本人が「藤原道長」か「藤原頼通」と答えるだろう
しかし、この2人物が栄光をつかむ土台を作ったのは、道長の父・藤原兼家(929~990)の執念だった
藤原兼家とは
(1)藤原兼家がなかなか出世できなかった理由
(2)藤原師輔家の系統が有利に~兼家の順番はいつくるのか?~
(3)兄・兼通との関係と兼通の奥の手“安子の遺言”
(4)兄・兼通の死去
(5)円融天皇譲位→花山天皇の即位
(6)「寛和の変」が起こり、花山天皇が譲位
(7)摂政となった藤原兼家
兼家がなかなか出世できなかった理由
藤原兼家は藤原北家という名門に生まれながら、努力を重ねても自身が望む出世ができなかったことに、ある時期ずっといらいらしていた
例えば、兼家が妻・藤原時姫(?~980)の家で自分の子どもたちと会った時、
「(兼家のいとこにあたる藤原実頼の子)藤原公任(きんとう)(966~1041)は学問・人柄においてすべて立派だ。それなのに、(兼家の)子供のお前たちは影を踏むことさえできない(=全く追いつかない)ではないか」
とあたりちらした
兼家が思うように出世できなかった理由は、生まれた順番にあった
家系図にあるように、兼家の父・藤原師輔(908~960)は4人兄弟の次男で、摂政・関白の地位は長男・藤原実頼(900~970)が引き継いでいた
そのため、摂政・関白の座も師輔の長男・藤原実頼の子が引き継いだ
これが兼家の出世を妨げる壁となり、兼家の欲しい位階・官職を得られない原因にもなっていた
しかし、その実頼とその子孫の権力は長続きしなかった
実頼の子・藤原頼忠(924~989)が天皇家との外戚関係をつくれなかったからである
※外戚関係をつくれない:天皇の母方の祖父になること。頼忠の場合、娘・藤原遵子(じゅんし)(957~1017)の夫・円融天皇(959~991)との間に皇子が生まれなかった
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平安時代に摂政・関白となり、権力を手中にするには、天皇との外戚関係が不可欠だった
このことを理解するには、平安時代の結婚生活様式を知る必要がある
平安時代、貴族が結婚すると、結婚した男性は女性の家に住みつくか、自分の家から女性の家に通うのがならわしだった
結婚相手が天皇(男性)の場合、天皇を自宅へ招くことはできないため、天皇の生活の場である宮殿の中に、女性側の実家の出張所のような部屋を設けて天皇を迎える
そして天皇と女性の間に子(皇子・皇女)が生まれると、その子は母方の祖父母(外戚)が自分の家で育てるしくみだった
つまり、皇子・皇女はよっぽどのことがない限り、自分を育てた母方の祖父母に愛着を抱くようになる
皇子・皇女が天皇になった暁には、育ての親である(外)祖父母を頼りたい気持ちも生まれたし、
周囲の人間も天皇を育ててきた者こそ、摂政・関白になる資格があるという考え方が常識になった
このように天皇との外戚関係あってこそ、摂政・関白は政治で大きな権力を持てたのである
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藤原師輔家の系統が有利に~兼家の順番はいつくるのか?~
しかし、前述の通り頼忠の娘・遵子は、後に皇后となるが、皇子が生まれなかった
一方で、次男・藤原師輔の娘である藤原安子(927~964)は、7人の皇子・皇女を産み、そのうち2人が天皇(冷泉天皇(950~1011)・円融天皇(959~991))となった
この結果、摂政・関白の地位も安子の実家が引き継ぐことになった
ただ、兼家にはまだチャンスが回ってこない
藤原師輔が権力をつかんでも、その座は長男・藤原伊尹(これまさ/これただ)(924~964)に引き継がれたからである
伊尹は、娘・藤原懐子(かいし)(945~975)と冷泉天皇の間に生まれた皇子(後の花山天皇)の外祖父になったことでその権力を盤石にする
伊尹亡き後、自身が外祖父として権力を握るには、兄・藤原兼通(925~977)との競争にも勝つ必要があった
兼家は若いころからその能力を発揮しており、冷泉天皇の治世には兼通より上の官位・官職を得ていた
その功績が認められ、宮廷内部でも「次期摂政は藤原兼家に」という声が高まった
兄・兼通との関係と兼通の奥の手“安子の遺言”
兼通には、起死回生の一手があったのである
それは、妹であり、村上天皇(926~967)の皇后となった藤原安子(927~964)の言葉だった
安子は亡くなる直前、摂政・関白の継承順について遺言を残していた
それは「摂政・関白の座は兄弟の順番通りに受け継ぐこと」というものである
皇后の立場から残した遺言の影響力は絶大なものだった
兼通より上の役職にいた兼家も、皇后としての安子の遺言には従うしかなかった
結果、藤原伊尹亡き後の摂政・関白の地位は藤原兼通が受け継いだ(974年)
兼家としては兄・兼通の死を待つ以外摂政・関白の地位を手にする道がなくなった
兄・兼通の死去
兼家の願いは思わぬ形で実現する
兼通は摂政の座について3年が過ぎた頃、病により亡くなった
兼家からすると「ついに自分の順番が来た」という気持ちだっただろう
外祖父としての地位を確立するため、娘の藤原詮子(961~1001)を円融天皇と結婚させた
円融天皇と兼通の娘・藤原詮子の間に皇子が産まれれば、自分が外祖父として権力を握ることができる
しかし、円融天皇は兼通との関係が良かったため、兼通と対立していた兼家に好意的な気持ちを持つはずがなかった
また、兼通は不仲な兼家に自らの地位を渡したくなかったため、摂政・関白の座を従兄の藤原頼忠(924~989)にその座を譲っていた
また、円融天応の兼家に対するネガティブな気持ちは兼家の娘・藤原詮子に対しても向けられた
自身(円融天皇)との間に子が産まれても詮子を冷遇するなど、最後まで正妻(=皇后)として認めなかった
娘・詮子への待遇に怒った藤原兼家は、その後宮廷への出仕を拒むなどして円融天皇に抵抗した
また、子を産んでいない(詮子は産んでいる)遵子を厚遇することにも反発していた
円融天皇譲位→花山天皇の即位
激しい対立を経て、円融天皇は兼家との交換条件を考えるようになった
それは、兼家が望む自身(円融天皇)の譲位を早期に実現する代わりに、遵子の立后(正式に皇后とすること)を行うこと
を交換条件として出したのである
自身は天皇の座から退くことになるが、円融天皇にとっては
・遵子を立后する
・兼家筋とは違う藤原家から立后することで兼家が権力をほしいままにすることを防ぐ
というメリットがあった
兼家も結局この要求をのみ、円融天皇は譲位することになった
なぜ、兼家は自分にデメリットのある要求を受け入れたのか?
明確な答えはないが、後任の花山天皇(968~1008)を取り巻く環境が深く関係しているのではないか
花山天皇は、兼家の兄・伊尹が実権を握っていたころに皇太子の地位を確立した人物であった
(この時すでに、伊尹は亡くなっていたが、死後でも花山天皇の即位を決定づけられるほど
伊尹の力は大きなものだった)
しかし、伊尹はすでに亡くなっていた
つまり、天皇の後ろ盾となるような存在は誰もいなかったのである
また、花山天皇には子どももいなかった
よって、花山天皇の次の皇位継承者には兼家の孫である懐仁親王(後の一条天皇)(980~1011)が選ばれた
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花山天皇を取り巻く環境から、兼家は一条天皇の外祖父として権力を握る日が遠くないと考えていたのではないだろうか
円融天皇からは冷遇された詮子だったが、自らの子・懐仁親王をついに次期天皇とするところまでこぎつけたのである
「寛和の変」が起こり、花山天皇が譲位
花山天皇は、弘徽殿の女御(藤原忯子)という女性を深く寵愛していた
皇太子はすでに懐仁親王が選ばれていたが、花山天皇は弘徽殿の女御※(藤原忯子※)との間に子を授かり、円満な関係を結んでいた
※藤原忯子(969~985):藤原為光の娘
※女御とは:天皇の寝所に出入りして仕えた高位の女官
寛和の変が起こり、花山天皇出家
ところが、花山天皇にとって人生最大の悲劇が訪れた
花山天皇の子をお腹に宿していた弘徽殿の女御が17歳の若さで急死してしまったのである
悲しみに暮れた花山天皇は出家して仏の道に入り、
弘徽殿の女御の供養に残りの人生を捧げることを考えた
しかし、天皇という立場であるのに生前愛した女性1人のために天皇の座を投げ出し、
仏門に入るべきなのか?花山天皇は思い悩んだ
そんな花山天皇に側近の藤原道兼(961~995)が声をかけた
道兼は
「(要約すると)天皇の座を投げてでも、仏の道に入ることに賛成します。花山天皇が出家するのなら、自分もついていきます」
と言ったのである
藤原道兼を信頼していた花山天皇は、この言葉で出家を決意した
藤原道兼とは
実は、この道兼という人物は藤原兼家の三男である
つまり、花山天皇が出家するよう父・兼家が裏から糸を引いていた
兼家と同じく道兼は藤原氏の興隆を考えていたため、天皇とともに出家する気は毛頭なかった
出家すること=天皇の座を譲位すること
であり、天皇の座から引きずり下ろすことのみ考えていたのである
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花山天皇が出家をする日、(出家するふりをしていた)道兼が、「出発前に一度父の兼家に会っておきたい」
と言い、花山天皇には出家手続きを進めさせた
花山天皇は、この言葉を信じ、出家手続きしながら道兼の帰りを待ったが二度と戻ってくることはなかった
自分が道兼に騙されたと気づいたときには、出家の手続きも終わり、後戻りできない状態になっていたのである
この一連の政変を寛和の変という
藤原兼家の方針にブレーキをかける人間はもういない
花山天皇には子供がいなかったため、藤原誼子の子・懐仁親王を天皇とすることに成功した
即位した一条天皇の外祖父となった兼家はついに、摂政の地位を獲得し、権力を手中にする
平安時代の権力者・藤原道長の全盛期は、父・兼家の執念の土台の上に成り立っていたのである
摂政となった藤原兼家
念願の摂政となった藤原兼家にはこんなエピソードがある
夏のある日、貴族たちが宮殿のある部屋で過ごしていたところ
一条天皇の外祖父・兼家が来ていた服の胸元を緩めた状態で天皇を抱きかかえていた
これをみた貴族たちは、「あってはいけない」と驚いたという
いくら幼少とは言え、
・天皇を他の貴族の前で抱き上げること
・正装(束帯)を乱した状態で天皇に接している
というのは、当時は(今も?)考えられないことだった
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これを実行した兼家の狙いは、
「他の誰にもできないことが自分にはできる」ということをアピールする狙いもあったのだろう
こうして、自らの力を揺るぎないものにした兼家
その力は、息子道長の時代に全盛期を迎える
(寄稿) とら蔵(とらぞう)
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