庵原朝昌(いはら-あさまさ)は、今川家の重臣で庵原城主でした。
今川家の軍師としても有名な太原雪斎も庵原城主・庵原政盛の子とされますが、今川氏真の時代の庵原城主は庵原忠胤(いはら-ただたね)です。
古くは、山本勘助が庵原忠胤の屋敷に寄宿していたともされます。
庵原忠縁(いはら-ただより)と言う武将も、今川家に最後まで忠義を尽くしていますが、1560年生まれとされる庵原朝昌の出自はイマイチわかりません。
ただし、新野親矩(新野左馬助)の7娘が庵原朝昌(庵原助右衛門朝昌)の正室になったともされています。
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いずれにせよ、今川家が滅ぶと庵原一族は離散したようで、庵原朝昌は武田家に仕えるも武田の滅亡後は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣・戸田勝隆に仕えたようです。
その後、津田信成の仲介を経て、徳川家康の家臣・井伊直政に1500石にて召し抱えられました。
井伊直政は家臣に厳しかったとも言いますが、そのせいか、庵原朝昌は喧嘩して出奔しています。
その後は、どこぞやで門番をしていたようですが、佐々成政に仕えていた水野勝成が、門番の具足などが立派だったため、問い詰めると、井伊家を出奔した庵原朝昌である事がわかったと言います。
そのため、水野勝成は自分の1000石のうち、庵原朝昌(庵原助右衛門朝昌)に200石も与えて、家来にしました。
その後、時期は不明ですが、徳川家康の4男・松平忠吉の仲介(佐々家滅亡の際に水野勝成の仲介とも)で、再び、井伊直政の家臣に加わると2000石になっています。
大坂冬の陣で、庵原朝昌は井伊家の家老として武者奉行を務め、戦功を立てます。
大阪夏の陣では、冬の陣で負傷した藩の筆頭家老・木俣守安の代わりに、井伊家左先鋒として若江の戦いにも参陣しました。
そして、豊臣秀頼からも信頼が厚かった木村重成を、十文字槍にて一騎打ちの末に討ち取ると言う大功を挙げます。
この時、井伊直孝の近習である安藤重勝(安藤長三郎重勝)と言う若武者が「まだ手柄を立ててないため、首を譲って欲しい」と懇願すると、全軍の指揮もあるし、首ひとつくらいくれてやると言ったとされます。
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これらの活躍が評価されて、庵原助右衛門朝昌(いはら-すけえもんともまさ)は加増されて4000石となり、井伊家の2番家老となりました。
その後、1640年に庵原朝昌は死去しましたが、子孫は代々「助右衛門」を称しています。
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