小笠原秀清の解説 ガラシャの殉教を助けた細川家の武士

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小笠原秀清

少斎の異名で名高い小笠原秀清(おがさわら‐ひできよ)は、足利将軍家に仕える奉公衆だった小笠原稙盛の息子として生まれました。
稙盛の拝命していた奉公衆は将軍家直属の軍人と言うべき存在であり、つまり決して低い身分ではなかったのですが、彼は生母・生年共に詳しい事は分かっていません。
別名を又六、加々美小左衛門とも言います。

この秀清が歴史の表舞台に登場するのは、細川藤孝が丹後国を支配した天正8年(1580年)以降です。
秀清は永禄8年(1565年)に勃発した永禄の変で足利義輝に仕えた父の稙盛を失って浪人となり、十数年の苦難の果てに同じく幕臣であった細川氏に客分として仕官し、500石を支給される待遇を得ました。

小笠原家は武官としてのみでなく、将軍家の弓馬師範を奉職したり武家故実(武家の行事や法令、儀式など)に携わる職務に携わっており、蜷川家や弓術の日置流雪荷派など同時代の武家・武芸者には秀清から故実を学んでいたと言われています。


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室町末期の乱世で幕臣の地位や家族を失う苦汁をなめつつも細川氏に仕えて安住の地を得た秀清は、主君の藤高が隠居して幽斎と名乗ったのと同時期の天正10年(1582年)に剃髪して少斎と名乗りました(※1)。

北野天満宮に仕える祠官(神職)の娘である松樹院と結ばれ、長元・長良・長定の三兄弟を儲けて小笠原家も安泰となった少斎(以下、少斎と表記)に、慶長5年(1600年)に悲劇が襲いかかります。
同年の7月16日、徳川家康との決戦に臨む石田三成が、ガラシャの登城を要求して細川氏の当主となっていた幽斎の子・細川忠興の大阪屋敷に使者を派遣してきたのです。

その時、会津征伐に赴いていた忠興から稲富祐直(細川氏の砲術師範)、川北石見一成(明智氏遺臣)らと共に大阪屋敷を任されていた少斎は、三成の要求を断ります。
少斎らは、かねてから自分が人質にされれば忠興の足手まといになるのを憂慮していたガラシャと談義の上、三成が執拗に要求した時には自害すると決めました(ガラシャに危険が及んだら彼女と共に死ぬようにと忠興が申しつけていたとも)。

翌17日、石田勢が細川邸を包囲すると覚悟を決めていた少斎は、祈りを済ませて召使いらを避難させたガラシャを長刀で刺殺して殉教させ、その遺体が残らないように屋敷に爆薬を仕掛けたうえで放火、自らも自害して生涯を閉じます。
こうした事態は、ガラシャが入信したキリスト教徒に自殺が許されていなかった事が招いた事でした。

残された子供達のうち、長男の長元は細川忠興の姪を妻として細川藩との婚姻で縁を強めて小笠原家を存続させ、末子の長良は一時キリシタンだったのが棄教し、幽斎の娘と結ばれます。
次男・長定はガラシャや自らの義父と同様にキリシタンとして信仰を貫いて殉教、平成20年(2008年)に福者として列せられました。


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小笠原秀清(少斎)は非業の死こそ遂げましたが、彼の意志はその子供達と共に弓馬の道、武家故実、そしてキリシタン信仰―様々な形で細川氏と強く結ばれ、今に至るまでその名を残し続けています。

(注釈※1)慶長元年(1596年)に号したという説もあり。

(寄稿)太田

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