藤原伊周とは
藤原伊周(ふじわらの これちか)は、平安時代中期の公卿で974年に生まれた。
2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では俳優の三浦翔平さんが藤原伊周の役を演じられる。
父は摂政・関白になった藤原道隆でその嫡男。
母は高階成忠の娘・高階貴子。
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985年、12歳で元服すると従五位下。
990年、祖父・藤原兼家の跡を継いだ父・藤原道隆が摂政に就任すると、藤原伊周は摂関家の嫡男としてエリート街道を登った。
992年、舅の源重光から譲られ正三位・権大納言。
妻は源重光の娘、源致明の娘。
子は藤原道雅、藤原頼宗の正室、藤原周子、藤原顕長がいる。
一条天皇に妹・藤原定子が入内すると、993年頃から清少納言が藤原定子に仕えている。
藤原伊周から貴重な紙が献上された中宮・藤原定子(ていし)は、「これに何を書かまし」と言い、清少納言は宮仕えの体験など「枕草子」の随筆を開始した。
994年、叔父・藤原道長、藤原道兼らを一挙に抜く昇進をして内大臣。
この異例の出世に不満を持ったのが、一条天皇の母・藤原詮子(藤原伊周の叔母)であった。
995年、関白の父・藤原道隆は飲水病(糖尿病)が悪化すると、後継に嫡男・藤原伊周を推して一条天皇より病の間だけと言う条件で内覧宣旨を受けた。
<注釈> 内覧の宣旨(ないらんのせんじ)とは、天皇に奏上すべき文書を、まずは内見して政務を処理する役目が内覧で、宣旨とは天皇の勅旨を宣し下達すること。(政府の命令を下達すること)
ただし、藤原伊周に関白は渡らず、叔父・藤原道兼が関白に就任するも約8日で病没。
そのため、関白をめぐって藤原伊周と叔父・藤原道長は争った。
しかし、一条天皇は藤原道長に内覧の宣旨を下し、更に藤原伊周の上位となる右大臣に任命。
これにより、藤原道長が氏長者となって、関白に代わって政務を執り仕切ることに。
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藤原伊周の同母弟・藤原隆家の従者が、藤原道長の従者と乱闘騒ぎになるなどしたが、996年、藤原為光の四女に通う花山法皇を、自分の思い人の藤原為光の三女が目当てだと藤原伊周は誤解。
藤原隆家の従者が放った矢が花山法皇の袖を突き通したため政治問題化し一条天皇は処罰した。
藤原詮子を呪詛し、宮中でしか行えない太元師法を行った藤原伊周は大宰府に左遷。(長徳の変)
<注釈> 大元帥法は、怨敵・逆臣の調伏、国家安泰を祈って修される法で法琳寺に伝わっていた。
藤原隆家は出雲権守に流罪となり、中関白家の藤原伊周は没落。
そして母の家族である高階信順、高階道順らも藤原道長によって処罰された。
母・高階貴子(高内侍)は大宰府に配流される藤原伊周に同行しようと、周囲の目を気にせず伊周に抱き着いたまま一緒に牛車に乗り込もうとしたと言う。
しかし、それを許されず却下されたと言う一幕が伝わる。
ただし、東三条院(藤原詮子)の病による翌年の大赦(恩赦)で藤原伊周は帰京を許されている。
999年、妹・藤原定子が一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産。
藤原伊周は敦康親王(あつやすしんのう)の立太子に望みをかけていたが、藤原道長の娘・中宮彰子(しょうし)の子・敦成親王の出生によって希望は絶たれ、藤原道長の勢力は更に拡大した。
1003年、藤原伊周は准大臣・正二位となって復帰するも発言力はなかった。。
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1010年、藤原伊周は失意のうちに死去。37歳。
藤原定子に仕えていた清少納言は、美青年で頭も良いと藤原伊周を称賛している。
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