目次 Contents
高階貴子とは
高階貴子(たかしなの たかこ) は平安時代中期の女性・女流歌人で生年は不明。
従二位・式部大輔にもなった高階成忠の娘で母は不詳。
2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では俳優(女優)の板谷由夏さんが高階貴子の役を演じられる。
スポンサーリンク
父は高階氏として初めて公卿に列することになった優秀な学者で、懐仁親王の東宮学士を務めていた。
高階貴子は和歌もでき、女性ながらに詩文に長けたため、円融天皇の後宮の女房として宮中に出仕した。
すると漢字・漢学の教養が評価され、内侍(ないし)として取り立てられ、高内侍(こうのないし)と称された。
才識をうたわれ殿上の詩宴に招かれるほどであったと言う。
古今著聞集によると、父・高階成忠は、娘・高階貴子のもとへ忍んで通っていた藤原道隆の帰りを見て、将来必ず大臣になると予見し、ふたりの仲を反対しなくなったと伝わる。
そのおかげもあってか高階貴子は藤原道隆の妻となり、974年に藤原伊周、979年に藤原隆家、980年に僧の隆円、藤原定子と3男4女を生んでおり、正室格となった。
娘の藤原定子は一条天皇の中宮となったこともあり、父・高階成忠は朝臣となって従二位・式部大輔に昇進すると高二位とよばれている。
夫・藤原道隆が摂政になると、992年、嫡男・藤原伊周が19歳にして権大納言、そして内大臣へと急速に昇進。
995年、大酒飲みだった藤原道隆は糖尿病が悪化し、東三条院(東三条殿)にて死去。(享年43)
跡取りの藤原伊周(ふじわらの これちか) は、スムーズに関白に就任できず、藤原道隆の同母弟・藤原道兼が関白・氏長者に就いた。
しかし、既に病だった藤原道兼は僅か7日後に薨去すると、関白を巡って藤原伊周と藤原道隆の弟・藤原道長との間で政争となる。
996年、長徳の変(ちょうとくのへん)となり、中関白家の藤原伊周と藤原隆家、そして高階信順、高階道順らが藤原道長によって処罰された。
事の発端は、太政大臣・藤原為光の4女に通っていた花山法皇を、自分の思い人の藤原為光の3女が目当てと誤解した藤原伊周が、弟である藤原隆家と待ち伏せ。
従者が放った矢が花山法皇の袖を突き通したため問題化したと言う。
こうして権力闘争に敗れた藤原伊周は大宰府に配流された。
また藤原隆家は出雲に配流。
<注釈> 父・高階成忠は出家していたため連座を逃れている。
最終的に藤原道長が藤原伊周を越えて右大臣に昇任し、氏長者となったため、藤原道隆の子孫は没落。
スポンサーリンク
高階貴子は大宰府に配流される藤原伊周に同行しようと、周囲の目を気にせず伊周に抱き着いたまま一緒に牛車に乗り込もうとしたと言う。
しかし、それを許されず却下されたと言う一幕が伝わる。
同年996年、病となった高階貴子は死去。
40歳代だったと推測されている。
百人一首に選ばれた和歌
高階貴子は、清少納言の枕草子にも登場している。
平安時代における女性の美人条件は「容姿ふくよか」「長く豊かな黒髪」「深い教養と品性」。
藤原家と中流貴族の高階家では家柄がつり合わないが、藤原道隆の求愛を受けた高階貴子が詠んだ歌が百人一首(54番)に納められている。
忘しの行末まてはかたけれは けふをかきりの命ともかな
意味(現代語訳)としては
「いつまでも忘れまい」というあなたの言葉が、遠い未来まで変わらないことはないでしょう。
だから、いっそのこと(その言葉を聞いた)今日限りに命が尽きてしまえばよいのに・・。
と言ったところでしょうか?
いや~、相手への思いがこもったとても素晴らしい歌ですね。(^-^)
スポンサーリンク
・藤原道隆をわかりやすく2分で要点解説【光る君へ】藤原道長の兄
・藤原隆家をわかりやすく3分で解説【光る君へ】刀伊の入寇を撃退した平安時代の英雄
・藤原伊周をわかりやすく1分で要点解説【光る君へ】美青年で優秀も藤原道長に敗れた若きエリート
・藤原定子をわかりやすく2分で解説【光る君へ】博識で聡明な悲劇の才媛
・紫式部(まひろ)はどんな女性?わかりやすい解説【光る君へ】
・藤原道長の何がすごいのか?わかりやすく解説【光る君へ】
・藤原隆家をわかりやすく3分で解説【光る君へ】刀伊の入寇を撃退した平安時代の英雄
・光る君へ【キャスト・出演者一覧リスト】NHK大河ドラマ2024年
コメント
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。