勾当内侍の解説 【太平記に登場する美女】

勾当内侍

勾当内侍(こうとうのないし)は、南北朝時代の女官です。
女官(にょかん)と言うのは、宮廷で仕える女性のなかでも「官職」を持つ女性のことです。
内侍(ないし)と言うのは、その役職名で、天皇の近くで宮中における経理・総務・人事・庶務などの事務処理全般を行う、女性だけの機関で、今でいう「秘書」のような仕事とも言えるでしょう。
重要な役職であったため、学問・礼法に通じている有能な女性が任命されました。
勾当(こうとう)とは、何かを専門に担当したことを意味し、リーダーとも言える高位でした。


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鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇が京に戻ったときの女官が「勾当内侍」と言う事になります。
生没年は不詳ですが、建武の新制が行われていた時の勾当内侍は、1310年頃に生まれたとされます。
出自は、公家・世尊寺家の一族とされ、諸説ありますが、一条経尹の娘(世尊寺経尹の娘)、一条行尹の娘、一条行房の娘(藤原行房の娘)、一条行房の妹ともされます。
本名は不明で、勾当内侍と、役職名で伝わるだけとなっています。

太平記によると、鎌倉陥落に尽力した新田義貞に、後醍醐天皇から恩賞として、1333年頃に、勾当内侍が与えられ、新田義貞の側室(愛妾?)になったとあります。
勾当内侍は、傾国の美女として描かれていて、新田義貞が見そめたとされ、京では勾当内侍と共に過ごしたともされます。

NHK大河ドラマ「太平記」では、宮中で名高い美女・勾当内侍を、女優の宮崎萬純さんが演じられました。
宮崎萬純さんは、太平記出演の3年後に、結婚して、俳優業を休止しましたので、出演じたい、かなり貴重だったと言えるでしょう。


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1336年、新田義貞は足利尊氏によって敗れると、京都から越前・金ヶ崎城へ落ちますが、その途中、匂当内侍を堅田に残したとされます。
その後、新田義貞は、越前の杣山城を経て、灯明寺畷の戦いで、命を落としました。

そのあとの勾当内侍の動向に関しては諸説あります。
琵琶湖の今堅田にて入水自殺したとも・・。
京都・嵯峨野(北嵯峨)で出家し、往生院(滝口寺)にて新田義貞の菩提を弔ったとも。
新田義貞の首を奪い、上野・新田庄にて葬ったなど。

ただし、太平記以外では、勾当内侍に関する記載が、ほとんど見られないため、フィクションとする考えもあります。


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なお、勾当内侍の墓とされる、滋賀県大津市今堅田にある野神神社と、群馬県太田市武蔵島町の花見塚神社の脇にあります。
トップの写真は、太田市にある勾当内侍の墓で、新田義貞の墓と並んでいます。

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