黒田利高(黒田利隆、黒田小一郎、黒田兵庫助、黒田兵庫頭利高)を1分でわかりやすく

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黒田利高とは

黒田利高(くろだとしたか、黒田利隆、黒田小一郎、黒田兵庫助、黒田兵庫頭利高)

黒田利高は、戦国時代の1554年生まれで、黒田職隆の次男。
母は小寺政職の養女(明石宗和の娘)。
黒田官兵衛(黒田孝高)の弟が黒田利高だ。
「黒田家二十四騎」「黒田家八虎」の筆頭。性格は実直で柔和、思慮深く、物事に動じなかったと言われ、黒田官兵衛の嫡男・黒田長政の後見役を務めた。

織田信長による中国攻めが始まると、兄・黒田官兵衛とともに羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の配下として、弟達とともに羽柴秀吉の馬廻り組となり、織田信長に味方した。

1578年10月、黒田官兵衛が荒木村重の説得のため有岡城へ行き、そのまま投獄された際に、黒田家家臣は動揺したが、家臣たちは、黒田長政を守り立て、黒田官兵衛の父・黒田職隆と、叔父の休夢、そして、黒田利高の命令に従うことを誓っている。(黒田家文書)

1580年 町坪城の戦いでは、英賀城主・三木通秋に加わっていた町ノ坪弾五郎を倒して町ノ坪城主となった。


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織田信長が本能寺明智光秀に攻められ没すると、兄・黒田官兵衛(黒田孝高)と共に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕えた。

小牧・長久手の戦いでの泉州岸和田の陣、四国攻めに独立武将として参戦。その後、黒田家に戻り、1586年の九州攻めでは先手を務めて黒田長政を助けた。
兄・黒田官兵衛、黒田長政が中津城120000石を領すると、高森城主として10000石を領した。
豊前で土豪一揆が起きると宇佐神宮を守り抜き、母里太兵衛らとともに宇佐郡の土豪を鎮めた。
兄と共にキリシタンになったと言うが、洗礼名は不明。

道で駕籠に乗った黒田長政に出会えば、馬から飛び降りて頭を地に付けて平伏し、黒田家の家臣たちに藩士としての手本を見せた事でも知られる。
また、黒田官兵衛と間違われるほど筆達者で、書状がよく残っている。

黒田利高は、宮本武蔵の父・新免無二之助を招いて中津藩士に剣を学ばせていたとされ、その甲斐あってか、子の黒田政成は石垣原の戦いで戦功を挙げ、黒田長政の筑前入国後14000石を領している。

1592年「文禄の役」に参陣したが帰国後、休戦後、1596年、黒田利高は和泉国堺で療養中に没した。思慮深く、心の広い人物だった。

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