中村玄角・中村時長の解説~領民たちから慕われた宇都宮家家臣

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中村玄角・中村時長

戦国時代には領民から慕われた仁将が少なからずいました。その代表は立花宗茂かと思われますが、宇都宮家臣の中村玄角(げんかく)・中村時長の親子もその1人でした。
今回はマイナー武将と言っても過言ではない中村親子の生き様をご紹介します。

中村玄角・中村時長

源義経の子孫・中村玄角

中村玄角は、宇都宮家臣の中で五本の指に入る闘将と称されました。また、源義経の遺児・中村朝宗を先祖に持ち、朝宗から数えて15代目が玄角となります。
つまり、玄角は源義経の子孫ということがわかります。

中村玄角は闘将の呼び名に恥じぬ活躍をしていました。それは、大永3年(1523)に勃発した宇都宮家と結城家との戦・猿山合戦時のこと。
当時、玄角のいる下野・中村城(現在の栃木県真岡市)は中村十二郷と呼ばれる土地で両勢力の国境付近にありました。


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また、下野・中村城は中村十二郷の最前線に位置し、防衛に失敗すると、結城家の侵攻を許してしまう事態になりかねない重要拠点でした。

その状況下の中で玄角は防衛に成功。
しかし、結城家は宇都宮領に侵攻してしまい、宇都宮家の敗北で終わりました。

下野・中村城の戦い

その後も中村玄角は宇都宮家家臣として活躍し、天文13年(1544)に結城四天王の1人で負け知らずの猛将と後世に伝わる水谷正村を撃退しています。

しかし、その夜玄角は領民たちと勝利の宴をしていたところ、正村から夜襲を仕掛けられます。
玄角は領民たちを宇都宮領へ逃がすべく、嫡男・中村時長に対し、下野・中村城に火を放つよう命じました。

そして、時間を稼ぐために正村の軍勢相手に奮戦し、討ち死。中村時長と領民たちは宇都宮領へ引き返しました。

この戦いは下野・中村城の戦いと呼ばれており、領民たちから慕われていた玄角は、領民たちを守るために勇猛果敢に戦ったことから、討ち死した場所には碑が建てられました。

下田城の戦い

下野・中村城の戦い後の翌年天文14年(1545)、先の戦いで中村玄角が討ち死した報告を受けた宇都宮尚綱は激怒。
水谷正村が下野・中村城の跡地に築いた久下田城(現在の茨城県筑西市)を攻略と中村家の領地奪還のため、軍を派遣したことで久下田城の戦いが起こりました。

中村時長もこの戦いに参加しますが、相次ぐ宇都宮家家臣たちの討ち死で孤立。それでも戦い続けるものの、旧領の奪還はできませんでした。

領民たちに慕われた中村時長

その後、中村時長は重臣として宇都宮広綱、宇都宮国綱に仕えました。
慶長2年(1597)に宇都宮家が改易されると、時長は宇都宮家から与えられていた領地、戸祭に残留。そして、戸祭にて病死しました。


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中村時長の旧領への想いに心打たれた領民たちは、中村時長が、下野・中村城跡に建てた中村大明神を中村小太郎神社と改名。
以後、領民たちによって大事に守られました。

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