多摩の小田屋敷と小田野肥後守定久・小田野源太左衛門・小田朝治・小田朝家の関係

北条氏照の家臣・小田野源太左衛門の館があった場所が小田屋敷(東京都八王子市松本)とされています。

新編武蔵風土記稿では「北条氏照の家臣・小田野源太左衛門の屋敷址」とあり、武蔵名勝図会では「北条氏照の家臣・小田肥後守の屋敷址なり」とあります。

なお、小田屋敷は小田野源太左衛門の父・小田野定久(小田野肥後守定久)が築いたとされます。

小田野源太左衛門は、のちに八王子城の出城となる武蔵・小田野城を任された武将です。


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1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにて、八王子城が陥落した際に、小田野肥後守定久と小田野源太左衛門は浪人となったようで小田野肥後守定久は1616年7月6日に八王子で没したとされます。

小田野源太左衛門は、松平忠吉に仕えた後、水戸徳川家の家老になっていた、旧北条氏照重臣の中山信吉(中山備前守信吉)の推薦で、元和四年(1618年)、水戸頼房に仕え「小田源左衛門」と改名し、子孫は水戸で続いたとされます。

なお、特筆すべき点としては、筑波の小田城主・小田氏の一族である、牛久城主・岡見氏系図です。

岡見氏系図では、小田家当主になった小田氏治の兄・小田朝治(おだ-ともはる)に触れています。

小田朝治(1529年~1582年)は

故有テ母トトモニ小田ヲ出テ、相州小田原ニ走リ、北条家ニ奇食ス

とあり、訳があって母と共に小田原城主・北条家を頼りました。
更には小田朝治の子に、小田朝家と言う武将がいて、その事を・・

小田源太左衛門、父トトモニ北条陸奥守氏照ニ属ス、北条家滅亡後、松平薩摩守忠吉卿ニ仕、卿逝去ノ後、元和四年中山備前守信吉ノ薦ニテ、水戸頼房卿ヘ奉仕、子孫水戸ニアリ

ともあり、小田朝治の子・小田朝家は、小田源太左衛門と言う名で、八王子城主・北条氏照の配下に加わっていたと言う事になります。
そして、松平忠吉に仕えてあと、元和四年(1618年)には水戸頼房の家臣になったとされます。

となると、同じ元和四年(1618年)に水戸頼房に仕えたと言う、先にご紹介した小田野源左衛門と言う武将は、小田朝家であると言う可能性が高いと言う事になりますが、残念ながら確証はありません。

しかし、わざわざ水戸藩士になった際に、小田野姓から「小田」と改名している事は、旧地である常陸に戻ったためとも考えられ、また、多摩の屋敷が小田野ではなく単純「小田屋敷」と呼ばれている事からも、元は小田一族であったともの推測ができます。

一応まとめておくと、小田氏治の兄・小田朝治=小田野定久(小田野肥後守定久)とも受け取れますが、没年が小田朝治は1582年とされ、小田野定久は1616年とされますので、この2人は「親子」である可能性も捨てきれません。
ただし、小田朝家=小田野源太左衛門(小田源太左衛門)はかなりの確率で成り立つのではと思えます。

小田朝治が北条家を頼った事は知っていたのですが、その後の事は今回の調査で初めて知りました。
ちなみに、小田城主・小田氏治は北条氏康(北條氏康)と同盟した際に、長男・小田友治を人質として小田原城に送っていますが、その小田友治はそのまま北条氏直(北條氏直)の家臣となっています。その後は豊臣秀吉に3100石で仕え、のち結城秀康松平定勝と主君を変えています。

小田屋敷跡

さて、多摩の小田屋敷ですが、多摩ニュータウン開発の際の発掘調査では、多摩ニュータウン№287、288、289、290と405遺跡が推定地とされます。

小田屋敷跡

それを照合してみますと、柚木城の南側にある富士見台公園の東側辺りであり、現在の松木台公園の周辺一帯が小田屋敷跡と言う事になります。

小田屋敷跡

宅地造成で改変されてしまっていますので、なんとも言えませんが、この辺りの屋敷跡にしては規模がそこそこあるような気が致します。

付近には、柚木城、大石虎宗の屋敷跡、松木屋敷跡など、細かな見どころが満載です。

小田屋敷跡への行き方は下記の地図ポイント地点の場所が、松木台公園となります。
特に屋敷跡などを示すものはありませんので、見学所要時間は5分です。

松木屋敷跡と大石宗虎屋敷跡・サルスベリ(大石やかた公園)
柚木城(由木城)柚木城跡の永林寺と大石定久像・大石家墓所
井草屋敷(井草城)と井草忠政(井草越前守忠政)・井草織部【植松太郎兵衛屋敷も】

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