大崎八幡宮(おおさきはちまんぐう)は仙台市にある神社で、社殿(本殿・石の間・拝殿)が国宝に指定されています。
創建年は不明ですが、社伝では坂上田村麻呂が武門の守護神である宇佐神宮を、鎮守府とした胆沢城(岩手県奥州市水沢区)に勧請したのが始まりとされています。
すなわち、最初は胆沢城の近くに鎮守府八幡宮としてあったと言う事ですが、室町時代になって奥州管領(奥州探題)となった大崎氏が、自領である宮城県大崎市に遷したため、大崎八幡宮と呼ばれるようになったと言う事になります。
しかし、この大崎氏は、伊達氏、蘆名氏、葛西氏などの有力国人に押されて衰退します。
11代当主・大崎義直(おおさき-よしなお)は、1536年に、家臣の氏家直継・古川持煕・新井田頼遠らの反乱を受け、伊達稙宗に頼ります。
以後は伊達家から12歳前後の養子・大崎義宣(伊達稙宗の次男)を送り込まれ娘の梅香姫と結婚したため、大崎義直は伊達家に従属する形となりました。
1542年、伊達家の当主・伊達稙宗と嫡男・伊達晴宗が親子で争う、 天文の乱(てんぶんのらん)が勃発すると、大崎氏の大崎義直は伊達晴宗に味方し、養子である大崎義宣は実父・伊達稙宗に協力しました。
この天文の乱は奥羽諸大名を巻き込み、約6年に及ぶ戦乱となりました。
最終的には、伊達稙宗の同調者の離反が相次ぎ、1548年9月、室町幕府将軍・足利義輝の仲裁を受け、伊達稙宗が隠居し、嫡男・伊達晴宗に家督を譲る条件で和睦が成立しました。
そのため、大崎家に養子として入っていた大崎義宣は、立場を悪くします。
大崎義宣は、1550年、実弟・葛西晴胤を頼って逃亡するも、葛西領内の桃生郡辻堂にて大崎義直の追っ手により誅殺されたとする説が有力なようです。
こうして、実権を取り戻した名生城主・大崎義直でしたが、完全に伊達家の傘下から逃れる事ができた訳では無く、1577年に没したとされています。
その大崎家を継いだのが、大崎義隆となります。
大崎義隆
大崎義隆(おおさき-よしたか)は、大崎義直の子として1548年に生まれました。
父・大崎義直が亡くなる前年くらい、1576年頃に29歳で家督を継いだようです。
正室は園野の方(北の方)で、葛西常時(葛西隼人正)の娘と伝わり、名生城内の北館に住んだため北の方とも呼ばれました。
側室では笠原一族・谷地盛直景の娘が見受けられます。
この頃、すでに伊達稙宗は死去し、伊達輝宗に代替わりしており、大崎義隆と伊達家の関係も良好でした。
大崎義隆は、妹・釈妙英(としよ?、大崎夫人)を分家筋となる最上義光の正室にし、会津の蘆名盛氏とも親交を深めるなど、近隣大名との関係を強化しています。
しかし、伊達家が支援もしていた寺池城主・葛西晴信との抗争は1571年、1573年と相次いで敗北しており、伊達輝宗は葛西晴信との同盟を重視しました。
そして、最上義光の援助を受けて、伊達家からの独立を図ります。
しかしながら、1586年、大崎家で内紛が勃発します。
寵童である伊庭野惣八郎と、新井田隆景が家中を二派に分けたお家騒動とも言われており、1588年、大崎家の重臣である岩手沢城主・氏家吉継が、伊達政宗に援軍要請をします。
伊達政宗は、豊臣秀吉の出していた惣無事令を無視して、浜田景隆・留守政景・泉田重光・小山田頼定ら5000とも1万とも言われる兵を出陣させ、中新田城を攻めました。(大崎合戦)
大崎義隆は、南条隆信を守将として籠城戦を展開させ、大雪で撤退を開始した、伊達勢を追い打ちします。
鶴楯城主・黒川晴氏は大崎家に寝返り、同じく伊達勢を急襲したため、挟み撃ちを受けた留守政景は新沼城へ敗走し、泉田重光・長江勝景を人質として出して退却しています。
また、山形城の最上義光も同調して伊達領へ侵攻し、黒川城(会津若松城)の蘆名義広も、大内定綱を派遣して苗代田城を攻略しました。
かなりピンチとなった伊達政宗でしたが、母・義姫(最上義光の妹)が、戦場に現れて両陣営に対して停戦を懇願。
これにより、和解が成立し大崎合戦は終結するも、大崎家の内紛は続いた状態でした。
1589年6月、摺上原の戦いで、大崎義隆は鉄砲隊を送って蘆名義広に協力するも、離反が相次いだ蘆名義広は常陸に逃れ、伊達政宗は蘆名家を滅ぼし奥州を平定します。
伊達政宗は、いよいよ次の攻略目標を大崎義隆と定めます。
そんな中、既に豊臣秀吉の臣従していた上杉景勝から、上洛するべきだと言う書状が大崎義隆に届きます。
そうこうしているうちに、1590年、豊臣勢による小田原攻めが開始され、6月、伊達政宗が小田原に参陣して豊臣秀吉に臣従しました。
宇都宮城まで進んだ豊臣秀吉に対し、大崎義隆も重臣を派遣しましたが、8月、会津・黒川城に入った豊臣秀吉は、この時までに出仕しなかった奥州の諸大名を取り潰す「奥州仕置」を行います。
これにより、大崎義隆(43歳)本人が応じていたなかった大崎家は取り潰しとなり、蒲生氏郷・伊達政宗の軍勢が、中新田城、古川城、岩手沢城を接収しました。
大崎義隆は、石田三成の指示で京都に赴いて弁明し、所領回復を願い出ると、前田利家や徳川家康の取り成しもあり、3分の1の所領を与えると言う朱印状を受けました。
しかし、大崎領では名門再興を願う大崎氏遺臣による新領主に対する反乱「葛西大崎一揆」が起こっており、大崎義隆の側室の子・大崎義興(大崎庄三郎)が旗頭とされました。
その混乱を受けて、豊臣秀吉は最終的に大崎・葛西領を伊達政宗に与えます。
これにより、大崎家は滅亡しました。
その後の大崎義隆の動向は良くわかっていません。
1592年の文禄の役(朝鮮出兵)では、蒲生氏郷の陣中に大崎義隆と考えられる、大崎左衛門尉(大崎左衛門)の名が見受けられます。
また、第2次晋州城攻防戦では、蒲生氏郷の一手として大崎義隆10人を従軍させるようにとの豊臣秀吉からの文書もあります。
しかし、実際に、蒲生氏郷も大崎義隆も、渡航するまでには至らなかったようです。
蒲生家が改易されたあと、会津に上杉景勝が入ると大崎義隆は家臣に加わったようで、1600年の関ヶ原の戦い直前では、直江兼続が支配した長井郡のうち2700石を賜っています。
また、関ヶ原の際に、白石城で大崎義隆の子(名前不明)が討死したともあります。
その後、1603年8月13日、大崎義隆は会津にて56歳で死去したともありますが、越後で亡くなったなど諸説あります。
伊達政宗が仙台城の築城を開始すると、1604年、仙台に「大崎八幡宮」の造営を開始。
1607年に社殿が完成すると成島八幡宮と合祀させました。
以前かせ大崎家の家臣が務めていた流鏑馬の神事は、その旧臣3人が祭りの日に仙台まで来ては担当したと言い、仙台藩が旅費を負担していたようです。
大崎八幡宮の本殿・石の間・拝殿(国宝)は、その時に伊達政宗が、桃山建築の粋を凝らして建造した現存建物となります。
訪問した際、本殿は修復中でしたが、見える装飾は見事です。
現在も毎年9月14日~17日の例大祭にて、流鏑馬神事も奉納されています。
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大崎八幡宮への行き方・アクセスですが、仙山線の東北福祉大前駅からだと北参道まで徒歩12分、国見駅からは表参道まで徒歩15分となります。
クルマの場合には、下記のポイント地点が境内無料駐車場となります。
伊達政宗が建造を指示(寄進)した現存建物は、ここの大崎八幡宮と、松島の瑞巌寺(国宝)くらいだと存じます(違っていたらご指摘願います)ので、大変貴重な観光スポットにもなっています。
仙台城や瑞鳳殿とセットで訪れたいところです。
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