里見忠義 正木時茂 倉吉の大岳院~里見八犬伝発祥の地

大岳院の里見家墓所

里見忠義とは

里見忠義(さとみ-ただよし)は、安房・館山城主である里見義康の長男として1594年に生まれました。
母は織田信長の姪と推測ざれます。
豊臣秀吉の死後、父・里見義康は徳川家康に協力しており、関ケ原の戦いの際には、宇都宮城に残った結城秀康と守備しており、その功績により12万石の国持大名となっています。
1603年11月16日に父が死去すると、まだ10歳だった梅鶴丸(里見忠義)が、12万2000石・館山藩の第2代藩主となりました。
ただし、年少であったため、藩の政治は、重臣の正木時茂・里見左京亮・板倉昌察・堀江頼忠らが補佐しています。


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正木時茂とは

正木時茂(正木大膳亮)と言う武将は、戦国時代に里見家を守った里見義頼の次男で、大多喜城主・正木憲時のあとを継承した里見家筆頭重臣です。
※同名の正木時茂がいますので2代目とつけておきます。

1606年、梅鶴丸(里見忠義)は、徳川秀忠の面前で元服すると「忠義」の名を与えられ、従四位下・侍従・安房守に叙任されました。
慶長16年(1611年)、老中・大久保忠隣の孫娘(大久保忠常の娘)を正室に迎えています。
下記写真は千葉の館山城です。

館山城

しかし、その頃には家中が乱れ、正木頼忠ら保守派と、印東房一らの改革派に分裂しますが、里見忠義(里見安房守忠義)はまだ若年で、抑えることができませんでした。

その矢先に、事件が起こります。

妻の実家である小田原藩主・大久保忠隣が失脚し、1614年、彦根城主・井伊直孝預りとなります。

そして、重陽の節句の賀儀を述べるため江戸城に参じた里見安房守忠義でしたが、慶長19年(1614年)9月9日、江戸城への登城を差し止められました。

理由は、大久保忠隣の失脚への連座、及び無断での城郭修理や要害整備、牢人を多く召し抱えたなどで、老中・土井利勝が使者を派遣すると、安房一国(9万石)は召し上げとなり、常陸鹿島領3万石のみと減封されました。
佐貫城主・内藤政長や大多喜城主・本多忠朝に安房・館山城は接取され、13人の家臣が自害した十三騎塚(じゅうさんきづか)の伝承もあります。

更には、伯耆・倉吉藩3万石に転封を言い渡されます。
それを聞いた家老の正木時茂ら重臣は、徳川秀忠や徳川家康に陳謝しますが、許されることなく、
里見忠義は1614年9月末に出発し、1年前から駿府城に呼び出されていた正木時茂と合流し、12月に伯耆倉吉に到着したと言います。
ただ、多くの家臣は同行しなかったようで、帰農した家臣も珍しくなかったようです。

もっとも徳川家康が大坂冬の陣を発したのは1614年11月ですので、江戸城を留守にする間、背後に家臣を多く抱えている里見家が存在したのは問題だと感じたのだと存じます。

倉吉では打吹城(倉吉城)には入らず、大岳院の門前となる神坂(倉吉市東町・住吉町・荒神町)に屋敷を構えたようですが、3万石の石高も、実質的には4000石程度しかなく、里見家は大変苦しい情勢となりました。
しかし、大岳院に3石1斗8升の寺地を寄進するなど、面目を保っています。

山名氏豊館跡(倉吉・大岳院)

また、忠義が寄進したと伝わる宋代の三彩稜花刻花文盤(さんさいりょうか-こっかもんばん)が現存します。

倉吉での立て直しを図る間もなく、1617年6月には、新たに鳥取藩に移封となった池田光政の家臣・伊木忠貞が倉吉領主となります。
そのため、里見忠義(里見安房守忠義)は4000石を取り上げられ、伯耆国久米郡田中村に移ると、百人扶持の知行とされたようです。
更には、元和5年(1619年)冬に、久米郡堀村(関金町)へと移転しました。

このように不遇な生涯を送った里見忠義は、1622年(元和8年)6月19日に病死。享年29歳。

常光寺の川原で火葬されたあと、倉吉・大岳院に葬られました。

遺骨は分骨されて高野山の里見家代々の廟にも納められたと言います。

なお、男子がいなかったとされ安房・里見氏は滅亡しましたが、側室との間にいた庶子は徳川家光などに仕えて存続したとされます。

里見忠義の病死から3ヶ月後に、八名の忠臣が殉死しました。
戒名に「賢」の文字が付けられ「八賢士」と呼ばれるようになったことから、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」のモデルになったと言われています。

大岳院の里見家墓所には、里見忠義と八賢士のほか、里見忠義の伯父に当たる重臣・正木大膳時茂の墓や、堀江能登守の墓もあります。
下記のように山門脇の一箇所にまとまっています。

里見忠義と八賢士の墓

ちなみに、里見義頼の次男でもある正木大膳は、里見家が断絶する前の1617年に駿府、そして江戸にと呼び出されれて蟄居・謹慎すると言う、辛い日々を重ねていました。
そして、主君・里見忠義が死去すると、正木大膳亮は鳥取藩預かりとなりますが、鳥取では2000俵が給付され、丁重に扱われたと言います。
しかし、罪人の汚名を着せられたまま1630年6月29日に死去し、正木家を含む、里見家の旧臣らの罪が許されたのは、里見忠義の死後から39年後の1661年12月でした。
このとき、正木大膳の子孫は、池田家の岡山藩移封に従ったおり、正式な家臣となったそうです。

小生が注目したのは、里見忠義と大久保忠常の娘との間に生まれた次女が、大久保忠常の養女となって、木下延次の正室?になっていることです。
木下延次は、日出城主・木下延俊の四男で、1614年生まれとされます。
15歳で妻を迎えたとしても、早くて1630年頃に、里見忠義の次女と結婚したと言う事になりますが、この木下延次は、大坂の陣で命を落としたはずの、豊臣秀頼の子・豊臣国松であったとも言われています。

交通アクセス

萬祥山大岳院(だいがくいん)へのアクセス・行き方ですが、下記の地図ポイント地点がお寺さんの駐車場となります。
地図縮尺は変えてご覧願います。

電車の場合は、JR山陰本線「倉吉駅」から日本交通・日ノ丸バス市内線「西倉吉」方面行きで12分「赤瓦・白壁土蔵(明治町)」下車の徒歩3分となります。

毎年、9月最初の日曜日には「倉吉里見時代行列」として、大岳院から桑田醤油・高田酒造・豊田家住宅へとの武者行列も行われると言います。

倉吉に入りますと、2016年10月21日に震度6弱を観測した鳥取県中部地震の影響を受けている住宅もたくさんありましたので、一日も早い復興を祈るばかりです。
とても小さいながら、中村家、山名家、里見家と、いくつもの戦国武将との関係も深い、見どころ満載の大岳院でした。
近くには川辺にある露天風呂でも有名な三朝温泉もありますので、立ち寄りたいところです。

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