清韓と方広寺鐘銘事件~文英清韓とは

清韓(せいかん)は戦国時代の1568年に伊勢・安芸郡にて生まれた戦国時代の臨済宗の僧で、正式名は文英清韓(ぶんえいせいかん)、俗名は中尾重忠です。
不放子とも称し、慈雲大忍(別説・文叔清彦)の法を嗣ぎ、伊勢の無量寿寺にて修業したと言います。

唐の漢詩文に秀でており、加藤清正の帰依を受けて九州に下向し、豊臣秀吉の朝鮮攻めでは、加藤清正と朝鮮半島に渡り、祐筆として活躍しました。
祐筆と言うのは、文書の作成や記録を担当した者で、今でいえば秘書です。

1600年、京都・東福寺の第227世長老となり、そのあと、南禅寺の長老となりました。

1614年4月、京都・方広寺の大仏殿を再建した際、総奉行の片桐且元に頼まれて梵鐘の銘文を考えます。

この鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」「右僕射源朝臣家康」といった語句があることを、江戸幕府は、徳川家康に対しての呪詛(じゅそ)であると捕えます。
このように徳川家康は問題視し、大仏開眼供養の中止を求めるなど「方広寺鐘銘事件」となりました。
8月、片桐且元と文英清韓(清韓)は駿府城に向い弁明したが、五山僧から非難されています。
この方広寺鐘銘事件によって徳川家と豊臣家との対立は決定的となり、大坂の陣へと進むことになりました。

文英清韓(清韓)は南禅寺から追放され、大坂の陣の際には大坂城に籠っています。


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大阪城が落城すると文英清韓(清韓)は逃亡しました。
しかし、捕らえられ、駿府城にて拘禁され、蟄居中に林羅山と知り合います。
のち林羅山の助命嘆願もあり許されると、後水尾天皇に東坡詩集を進講しています。
その後、豊後に移り、文英清韓(清韓)は1621年3月25日に没しました。

「国家安康」「君臣豊楽」の語が入った鐘は、現在国宝に指定され方広寺にて保存されています。
また方広寺鐘銘の下書きは重要文化財として熱海のMOA美術館にて展示されています。

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