菅谷半之丞とは
菅谷半之丞(すがや-はんのじょう)は、1660年に生まれた江戸時代前期の武士で本名は菅谷政利(すがや まさとし)。
父は赤穂藩・浅野家の家臣である菅谷平兵衛。
母は津田五郎左衛門の娘。
まず「菅谷氏」の先祖と言うと純粋に考えて、戦国時代に大活躍した菅谷政貞(すげのや-まささだ)が思いつく。
そもそも、赤穂藩主である浅野氏は戦国大名の浅野長政から続く家系だ。
この浅野家は、織田信長の弓衆と言う下級武士であったが、ねね(おね・北政所)を養女にしていた時、木下藤吉郎と結婚したことで浅野氏は豊臣家の親戚となった。
そして、羽柴秀吉が豊臣秀吉への出世する過程で、譜代の家臣がいない豊臣秀吉の貴重な一族となった。
同じく養女だった浅野やや(長生院)が婿養子に迎えたのが浅野長政(安井重継の子)になり、豊臣秀吉から一番近い親戚であった。
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浅野長政はとんとん拍子に若狭・小浜城8万石、甲斐・甲府城21万石と大大名となったが、古参の家臣(譜代の家臣)はほとんどいないため、南部信直、宇都宮国綱、那須資晴、成田氏長らが与力として付けられている。
そんな過程で当然、兵力を増やすため新規で家臣もどんどん召し抱えていたことだろう。
しかし、豊臣秀吉が死去すると浅野長政の立場も悪くなる。
1599年、徳川家康を暗殺しようと企てたとして、前田利長らから嫌疑をかけられて謹慎し、家督を子の浅野幸長に譲って武蔵・府中にて謹慎した。
そのため、1600年の関ケ原の戦いで、浅野長政・浅野幸長は徳川家康に味方して無実をアピール。
しかし、石田三成に属さなかったことで、浅野幸長は和歌山城37万石と加増移封となった。
浅野長政の3男・浅野長重(あさの ながしげ)は、下野・真岡城2万石となり、更に浅野長政は1606年、隠居料として江戸幕府から常陸・真壁城5万石を与えられた。
この真壁では常陸・小田城の旧小田氏の家臣らが浅野氏に仕官しており、赤穂浪士の半数程度は真壁城下・笠間城下など常陸の武士である。
前述したとおり戦国時代の菅谷氏は小田政治から木田余城や土浦城を任された筆頭とも軍師とも言える重臣。
特に菅谷政貞は主君の城が奪われても何度も取返した。
また、土浦城が佐竹氏に陥落し、小田氏治が佐竹氏に臣従し自身も佐竹家の家臣に組み込まれても、小田氏治の再起を助けるため佐竹氏を裏切るなど忠臣とも言え、軍略にも優れた有能な武将だ。
そのため、真壁城に入った浅野長政は、浪人となっていた菅谷政貞を推挙。(時期は諸説あり)
菅谷政貞は忠心を評価され徳川幕府の幕臣(約5000石)となった。
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菅谷半之丞の父・菅谷平兵衛が赤穂藩士になっていた訳だが、常陸・菅谷氏の一族との接点は見つからず裏付けは取れない。
しかし、菅谷半之丞の実名・菅谷政利の名前でも「政」の字が使われていることから、恐らくは小田氏の重臣であった菅谷政貞や子の菅谷範政に近い菅谷一族であった可能性はあるだろう。
ちなみに、赤穂藩浅野家筆頭家老・大石内蔵助(大石良雄)の先祖も、真岡藩主・浅野長重に仕官したため、大石内蔵助の祖父は笠間に家老屋敷があった。
1611年、浅野長政が死去すると、常陸・真壁藩5万石は3男・浅野長重が継いで真壁城に移った。
大坂の陣のあと、1619年に浅野幸長の弟・浅野長晟(ながあきら)が安芸・備後42万石となって広島城に入った。
この広島の浅野氏は本家筋と言う事になる。
1645年、真壁藩主の浅野長直が赤穂藩主を命じられ5万3000石で入部。
このとき、真壁にいた藩士の多くも赤穂に移住。
赤穂城の大改修を行い、塩田開発を奨励した。
浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)は赤穂藩2代藩主・浅野長友の嫡男という事になる。
浅野内匠頭の母・内藤波知(ないとう-はち)の姉妹が大垣藩主・戸田氏定(とだ-うじさだ)の母でもあったため、広島藩・大垣藩などが連座する可能性もあった。
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菅谷政利(菅谷半之丞)は、子供の頃に赤穂に配流中だった兵学者・山鹿素行に直接教えを受け、家老・大石内蔵助良雄から山鹿流奥義免許を受けたと伝わるが、赤穂浪士の中でも作戦面を担当するなどしたようだ。
家禄こそ100石と低めだが、まさに、ご先祖とも考えられる智将・菅谷政貞の家系を彷彿とさせる。
菅谷政利(菅谷半之丞)を浅野家の譜代家臣とする場合もあるようだが、これにはちょっと疑問を感じる。
譜代の家臣と言うのは100年など何代にもわたって家臣だった古参家臣のことを言う。
もし、菅谷半之丞を浅野氏譜代とするのであれば、少なくとも3~4代前から藩士になっていたと言えよう。
菅谷政利(菅谷半之丞)、享年43。
大石内蔵助から1歳年下であった。
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