軍師・竹中半兵衛の嫡男・竹中重門は、竹中半兵衛が亡くなった1579年当時でまだ6歳であった為、一族の竹中重利の後見を受け、竹中重門が元服した際には黒田官兵衛が烏帽子親を務めた。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えており、1584年の小牧・長久手の戦いに従軍。
1588年には従五位下丹後守となり、翌1589年、美濃国不破郡5000石となり、岩手城(竹中氏陣)を整備。
正室は加藤光泰の娘。加藤光泰は美濃衆で、羽柴秀吉に仕えており、1585年には大垣城主20000石、1591年3月には甲斐信濃120000万石に移封している。
竹中重門は1590年の小田原征伐にも従軍し、文禄の役では名護屋城に駐屯。慶長の役では軍目付として朝鮮へ渡海した。
のち、戦功によって河内国内に1000石を加増され、1600年の関ヶ原の戦いでは、当初西軍に属して犬山城主・石川貞清を助けるも、井伊直政の仲介によって東軍に鞍替し、みずからの本拠地・菩提山城を徳川家康に提供。
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幼なじみでもある黒田長政の軍に合力して、黒田勢と共に関が原で戦い、さらに戦後まもない9月19日、伊吹山山中で、西軍の武将・小西行長を捕縛するなどの大功を挙げ、徳川家康から直筆の感状を受けた。
また、関ヶ原は竹中家の所領であったことから、戦没者に対する供養料1000石を下賜されるなど、幕府旗本(交替寄合席)として美濃岩出山6000石を安堵され、竹中家が代々継承した。
庶子の1人は黒田長政との縁により福岡藩黒田家に重臣として仕えている。
徳川政権になると竹中氏陣屋に拠点を移し、二条城の普請や大坂の陣にも参加したが、1631年に江戸にて死去。享年59。墓所は東京都港区の泉岳寺。
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