津久井城主~内藤綱秀説と内藤景豊説


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 津久井城落城の章でも触れたが、最後の津久井城主に関しては、2名の名が見られ、よくわかっていない。
 その最後の津久井城主・津久井内藤氏に関して、詳しく調べてみた。

<津久井城最後の城主内藤綱秀説>

 内藤綱秀(内藤左近将監綱秀)は、相模中郡岡田や酒井のほか相模東郡河尻などに約1002貫を知行した、北条氏の中でも重臣である。
 内藤綱秀を城主とした古文書の場合、津久井衆を率いて、1569年、武田信玄による小田原攻めや駿河における戦いなどで津久井衆を率いて活躍している。
 豊臣秀吉の小田原攻めでは、1590年4月に中郡白根に駐屯する豊臣勢を攻撃している。(白根の戦い・白根合戦)
 5月に津久井城普請(増強)、6月には相模の諸地域の麦の刈り取りを指示。
 その後、北条側の城が続々と落ちると、内藤綱秀の妻は松田憲秀の娘であった事から、内藤綱秀の子・内藤直行は小田原征伐時も祖父の松田憲秀とともに行動し、小田原城内の一角を守っている他、松田憲秀出奔の謀議にも関わっている。
 内藤綱秀は津久井城に居て積極的に徳川勢へ攻撃したが多勢に無勢。むなしく津久井城は落城。その後の消息は不明である。
 息子・内藤直行(内藤左近太夫直行)は北条氏直高野山に蟄居するとき同行した模様だ。その後、内藤直行(内藤助右衛門直行)は加賀・前田家に召抱えられ200石となったと考えられる。

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<津久井城最後の城主内藤景豊説>

 内藤景豊(内藤大和守景豊)を城主とした古文書(新編相模国風土記など)によると、特に落城前の話は出てこない。
 北条側の城が次々にと落ちると、北条氏照同様に重臣として一番重要な小田原城に籠り渋取口を守備。津久井城は津久井衆150騎(約500人程度か?)で守備していたとされ、津久井城は豊臣秀吉の大軍に抵抗する力は既になかった。
 この時、津久井城は敵を迎撃するのではなく、恐らくは八王子城を孤立させない為と、八王子方面と小田原城の連絡中継目的だけで機能させていた面があったと考える。
 小田原城落城後の内藤景豊の消息は不明である。内藤景豊の墓は平塚市の乗蓮寺にあるようだが、江戸時代に入り、内藤景豊の元・家臣である佐藤豊成の子孫が供養の為、建立したと考えられる。

内藤綱秀と内藤景豊(内藤大和守景豊)を検証

 内藤綱秀と内藤景豊(内藤大和守景豊)を検証してみると、内藤綱秀の子・内藤直行の妻は、北条家重臣の松田憲秀の娘である。
 豊臣秀吉の小田原攻めで、小田原城が開城すると、内藤直行自身、北条氏直の高野山蟄居に同行していることからも、恐らく、正式な津久井城主は内藤綱秀だったと考えらるのが適切だろう。
 家臣が勝手に北条家当主の名から一文字使って「直行」と言う名で元服するのも失礼な話なので、恐らくは北条氏直から一字を与えられたものとも推測できる。
 なお、内藤大和守の名義で発給した文書の花押と、内藤綱秀の名で発給した文書の花押が一致する部分も見受けられる。
 また、相州津久井領青山村光明寺領改帳には、其後津久井、城主内藤大和守入道法讃同綱秀、同左近将監直行との記述がある。
 この花押と寺の古文章から判断すると内藤綱秀と言う名の人物と、内藤大和守と言う名の人物は「同一人物」と考えるのが妥当となる。
 要するに、内藤左近将監綱秀は、内藤大和守綱秀と、官位を変更した際、息子の内藤直行に左近将監を継承させたのだ。当然、北条家からそのようにしろとの話があったのかも知れない。

 そうなると内藤綱秀(内藤左近将監綱秀、内藤大和守綱秀)と、別説に出てくる津久井城主の内藤景豊(内藤大和守景豊)は同一人物なのか、果たして別人なのか?

 北条家内で地位もあった内藤氏である為、多少の分家や親戚筋がいて、同じく内藤を名乗っていても全く不思議ではない。
 豊臣秀吉の小田原攻めでは、北条家からの要請に従い、属城の城主(当主)とその嫡男は小田原城に入り籠城したのと同じく、津久井城主・内藤綱秀と子・内藤直行も小田原に馳せ参じたのには間違いないだろう。
 内藤綱秀にはどうやら弟も存在していたようなので、留守にする城には「城代」として、最も信頼できる者を残すにあたって、その津久井城の城代を任されたのが「内藤景豊」と言う人物だった可能性も捨てきれない。

 内藤綱秀が豊臣勢を攻撃したとされる白根の戦い(白根合戦)で活躍した内藤氏の家臣が内藤大和守から1590年4月17日発行の「感状」を受けている。
 津久井青野原村・井上源三郎と、佐藤豊成(佐藤伝左衛門豊成)に宛てた2通の感状が現存している。
 しかし、内藤景豊は、内藤大和守綱秀と同じ「大和守」の官位で表現されている。
 また、須賀湊(平塚)にある乗蓮寺には、この佐藤伝左衛門豊成の子孫が、江戸時代に入ってから建立した内藤大和守景豊の墓がある。
 この内藤綱秀名義の感状が発行された3ヶ月後に、小田原城の北条氏直は降伏しているのと、内藤大和守の墓の由来として「大和守は津久井城主内籐景豊なり」と表記していることから、内藤綱秀(内藤左近将監綱秀、内藤大和守綱秀)と、内藤景豊(内藤大和守景豊)は、同一人物であるとも考えられる。
 ※道志川沿いには、佐藤性が多く、今日でも道志村では佐藤さんが30%を占める。

 

 気になる点としては、北条幻庵(北条三郎、北条長綱)の3女・北条小菊(17歳)が、1535年に内藤景豊(20歳)の正室になったようだ。
 この嫁いだ先の内藤景豊と言う人物は、内藤綱秀の父である内藤康行と考えられ、小菊との間に生まれたのが、内藤綱秀(1540年誕生)であるようだ。
 これから逆算すると、内藤綱秀は小田原攻めがあった1590年には50歳の高齢だった言う事になる。
 小田原攻めの数年前から、内藤氏が発行する平時の書状には、内藤直行(内藤近将監直行)の名が使われることが多い事からも、内藤綱秀は1586年に隠居して、内藤家の家督は内藤直行が継いでいたと推測するのが適切だ。
 しかし、1590年、北条家の存亡が掛かる事態となると、隠居していた内藤綱秀も後見として出陣・指揮なども行っていたと考えるられ、その隠居した時か、切迫したことからかは不明だが、名を内藤綱秀から内藤景豊(内藤大和守景豊)に改名して、元々寝返りやすい性質の津久井衆を、父の名「景豊」を名乗るように改名することで、家臣の結束を強めたのだと、小生は考える次第である。

 

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