津久井城主~津久井内藤氏の考察


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津久井内藤氏

 北条早雲が三浦氏を滅ぼし相模国を平定すると、度々関東や津久井に進出していた武田氏に対する最前線防御拠点として、相模国・津久井城の拡充が行われたと考えられる。
 北条氏綱が扇谷上杉朝興の江戸城攻略を開始すると、上杉の要請に武田が応じて、1524年~1525年には甲斐の武田信虎が奥三保を攻める。

 「1524年、国中の勢が猿橋の御陣にて働き、奥三保へ働き矢軍あり」
 「1525年、武田信虎と北条氏綱とが合戦、いまだ津久井の城落ちず」
 この当時、まだ津久井のあたりを「奥三保」と呼び、そこにあった城が「津久井城」と呼んでいたことが改めてわかる。また、相模原市の馬坂と武田信虎にまつわる古話もある。
 この時の津久井城主は北条氏家臣の内藤大和入道であり、1525年武田と北条は和睦した模様だ。
 津久井城主内藤氏は北条氏の重臣であり、内藤氏の先祖は平将門を討伐した藤原秀郷とされるが、その出自や系譜に関しては確たるものはない。しかし、北条氏関連の残された内藤氏関連の文書が24通も現存しており、北条家中では相当の重臣であったことは間違えなく、北条氏家臣のなかで、内藤氏の花押を用いた独自の文書も発給もしている。
 1530年、北条氏縄の軍勢が甲州街道を進軍。武田勢は現在の中央高速談合坂SAかせほど近い矢坪坂で待ち構え、4月23日矢坪坂の戦いとなる。武田勢である小山田越中守は敗走するなど、1524年~1530年頃、相模と甲斐の国境付近では戦が絶えなかった。
 津久井城主内藤氏は1187年頃、京都の治安維持にあたった御家人の一人である内藤四郎の家人内藤権頭親家が津久井にいた内藤氏の先祖と言う説もある。その内藤権頭親家の子孫が鎌倉幕府滅亡後の南北朝の内乱期を生き抜き、室町時代には鎌倉公方足利持氏に仕え、その後、関東管領上杉氏に仕えるようになったと言う説だ。
 北条早雲が相模国を平定すると内藤氏は北条氏に属するようになり、1541年以降には奥三保の守備を任されたとされている。

 →功雲寺と津久井城主・内藤氏の墓

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 1559年に北条氏康が作成した「北条氏所領役帳」には、津久井衆として内藤左近将監、1202貫との記述がある。
 時代は不明だが津久井城主・内藤康行は津久井衆1402貫の記録もある。
 この頃は内藤景定(内藤左近将監景定)が津久井城主であったと考えられ、津久井城に程近い功雲寺には内藤景定(内藤左近将監景定)夫婦の他、家老の馬場佐渡らの墓がある。馬場佐渡は津久井城の城代家老だった。
 1590年の「北条家人数覚書」には「内藤 つくいの城 150騎」とあり、同年の「関東八州諸城覚書」にも「つく井 内藤」とある。

 内藤氏は津久井にいただけでなく、現在の愛川町の田代城にも内藤氏がいたことが知られ、相模北部に小田原北条氏に仕える二流の内藤氏がいた模様だ。津久井城最後の城主とされる内藤綱秀は、田代内藤氏の出である。それを考えると、もとも内藤氏は愛川町の方を治めていて、三浦氏が滅ぶと津久井も与えられたとも考えられるが、記録がなく詳細は不明だ。
 田代城については小沢古城・小沢城・田代城・細野城のコーナーで触れている。
 内藤氏は「津久井衆」の筆頭であったが、戦国時代の津久井衆は「半敵地」又は「敵半所務」「敵知行半所務」などと呼ばれるように、津久井衆の半分位は武田氏の重臣・小山田氏に味方する土豪たちであったので、北条と武田の息が複雑に絡んでいたようだ。逆の捕らえ方をすると、土地が安堵されれば、どっちの味方でもよかったのかも知れない。
 武田氏滅亡(1582年)以降は小田原北条氏が完全に津久井を掌握していたようだ。

津久井城落城

 豊臣秀吉小田原攻めが開始されると、北条家の属城における主力部隊は、小田原城に入り籠城。どの属城の守りも手薄な状態であった。
 津久井城も例外ではなく、守る家臣はわずか150騎。農民の徴用・雑兵も含めると全体で約500名程度と推測できる。
 対して、津久井城攻めの任にあたった徳川勢の本多忠勝平岩親吉、戸田忠次、鳥居元忠、松平康貞らは11000~12000で、完全に津久井城を包囲していた。

 かくれ沢(津久井)

 6月23日の八王子城落城の際、城山町には「下馬梅」と言う逸話も残っており、八王子城落城の知らせが届いたのか、6月25日に攻撃を受けた際に、津久井城はほとんど戦わず開城する。
 下馬梅の話は、別の「小松城と煙火台」にてご紹介する。
 津久井城の南に広がる金原地区には、前陣馬、奥陣馬、勝どき畑、首塚など、この時の徳川勢布陣に関連すると考えられる地名が残されている。
 津久井城が攻められている際、津久井城主の内藤景豊(内藤大和守景豊)とする説もあるが、 内藤綱秀(内藤左近将堅綱秀、内藤左近太夫、内藤大和守綱秀)とする説もある。
 北条氏家臣に関する古文書では内藤景豊と内藤綱秀とをかなり混同してしまっており、どちらが正しいかわからないが、系図的には内藤綱秀の方が古くから北条氏家臣であることから、津久井を任されたと考えられる為、一般的には内藤綱秀の方が有力だ。
 先日は、恐れ多くも松田憲秀のご子孫の方からも「内藤綱秀説を取られている」と、小生にご連絡を賜った。
 なお、松田憲秀と言えば北条早雲の代から北条家の重臣で、北条家の家老でも筆頭だ。そして、豊臣秀吉の小田原攻めの際にも小田原城にて大きな役割を果たしている。
 次の章では内藤景豊と内藤綱秀と2人を分けて津久井城落城を語りたい。

 

 

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