稍姫(やや)は、熊野田隠岐守(熊田宗白)の娘。
生年1546年~没年1612年。
熊野田氏は、代々朝廷に仕えて、遣隋使として有名な小野妹子を輩出した小野氏系でしたが、熊野田村(現在の豊中市)に居を構えたため熊野田殿と呼ばれるようになったようだ。
熊野田隠岐守の兄・熊野田出羽守は、室町将軍に仕えて畿内諸社の政務を担当した為、在京することが多く、熊野田隠岐守が熊野田の御代官となって熊野田村を治めた。
しかし、戦国時代となると、管領・細川氏の跡目争いに巻き込まれて、池田氏を頼ったようだ。
そんな縁から、池田家中で武勇ある中川清秀に、娘の稍姫を嫁がせたと考えられる。
父・熊野田隠岐守は、嫡男・千助資勝(稍姫の弟)に家督を譲ると、剃髪して宗白と名乗って隠居した模様。
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稍姫が、中川清秀に嫁いだ年は不明だが、1566年には長女・絲姫(糸姫)が誕生しているので、1563年頃?と推定される。
「永禄年中、清秀様御年若の時御武勇比類無く、其の上御家は御代々摂州の旗頭筋にて候えば後々は御家運開かせらるべしと思惟し娘に御縁を組み、御縁者に成りて子供をも皆御家来になして行く末を頼み奉る」
と言う記録が残っている。
なお、長女・絲姫(糸姫)は本能寺の変の前後の年あたりで、池田輝政の正室となり、1584年9月7日には池田家の跡継ぎとなる池田利隆を産んでいる。
しかし、羽柴秀吉の仲介で、1594年には、北条家に嫁いだが小田原攻めのある、徳川家康の元に戻っていた督姫(31歳)が、池田輝政(31歳)の継室として姫路城に入った。
この時、絲姫(糸姫)は、池田利隆を産んだ後、ずっと体調を崩していたのか?、子ができなかった事で、産後の体調不良を理由に離縁されたようだ。
岡山城主・小早川秀秋が没すると、督姫は江戸幕府を動かして、1603年にわずか5歳の自分の子・池田忠継を岡山城主にして、池田輝政り嫡男・池田利隆を池田忠継の執政代行に据えた。
しかし、その後、池田利隆は徳川秀忠の養女・鶴姫(榊原康政の娘)を正室に迎えて江戸幕府との関係を深めて挽回し、池田忠継へ10万石を分与し、42万石・姫路藩主となっている。
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